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牧師の説教ノート(8月28日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 パウロは、コリント教会の人々に対して、実際に神様に召されている類の人々が、この世の水準的に見てどうであるかという事について問いかけ始める。神はこの世界の中で抜きんでて優れている人間、即ち「英雄」的な人々に目を留め、愛されたとしても何ら問題が無かったにも関わらず、実際に神に愛され、召されて教会の中に集まっているのは、この世的に見れば到底自身を誇る事の出来ない非英雄的な人々ばかりであった。彼らは権力者でもなければ金持ちでもなく、何らかの分野で権威がある訳でもない。しかし、その不思議な選びの中にこそ、神の最高の知恵が隠されていることをパウロは人々に解き明かした。今日の箇所の論説は、いわば25節までに説明した事の例証である。パウロは、この事を深く理解させることによって、十字架のことばが神の力である事を、コリント教会の人々に受け入れさせ、かつ人間的な誇りや拠り所という全ての偶像を完全に破壊し、捨てさせようと努力しているのである。


〇召された、選ばれた
 召し(ギ:ケレシィス)は、呼び出し、招集など、受動的に自身が呼び出されている事を指す単語である。これによって、主に召された人々は自分からやってきたのではなく、受動的に召し出されたというニュアンスでパウロが語っている事がわかる。
 即ち、パウロは「あなた方自身が召されているという事実について少し考えてみるように」という呼びかけたのである。
 また、27-28節で選ばれた(ギ:エクレゴマイ)という言葉が繰り返し使われている事からも、キリストの十字架による救いに応答して人々が集まると言う現象は、人間側にではなく、神の側にイニシアティブがある事がわかる。自身の力で救いに辿り着き、神が「召し出さざるを得なかった」人間はこの世界には一人もいないのである。


〇クリスチャンの将来性
 クリスチャンは弱い人々、また低い階級の人々の中から神様が選び出されたとパウロは論じているが、神は弱い人々や低い階級の人々「と誤解されている」人々を選ばれている訳ではない。実際の所はもっと酷く辛辣で、弱い人々、また低い階級の中であってさえ、取るに足らない、無に等しいと見下されている人々、それも、御自身の目から見ても、それは事実、愚かで弱く将来性がないと判断されたものを神はお選びになられているのである。彼らはこの世的には全く将来性が無いと判断されて打ち捨てられた人々であって、なおかつ神もまた、それが「妥当である」と判断された人々なのである。しかし、神はそのような人々を通して、あらゆる優れた人間の所業を全て凌駕する大きな御業を起こされた。そのことを、神はその叡智に従ってお決めになられたのである。
 無論、知識階級、また権力階級の人間がコリント教会に一人たりとて居なかった訳ではない。「多くは無く」という表現の仕方がそれを指している為、「キリスト教が社会的弱者階級専用の救済である」と説いたケルソスののような考え方「オリゲネス『ケルソス反駁論』三巻44頁)は間違いであるし、その考えはオリゲネスによって反駁されている(同書、三巻48頁)。
 例え力があり、高い身分の階級の人々が教会の中にいたとしても、その選びと知恵による計画にはなんら影響はない。神の選びが階級や知識によって行われている訳ではないという事実は、教会の全体像を見る事で確かめる事が出来るからである。一部の例外こそいるものの、教会に集う人々のほぼ全てには、この世的な将来性が存在しない。これらの選びの真実は、今日の教会に集う私達にも適用されており、それ故に、私達は「救われている」という証拠をもって、この世的には何の価値も無い一人一人なのだということが実証されているのである。だから私達は、決して神の前に思いあがってはならないのだ。


〇単語の語形による表現から見るギリシャ思想
 日本語聖書では判らないが、知者(ギ:ソフォトイ)、力ある者(ギ:デュナトイ)、身分の高い者(ギ:ユーゲネイズ)と呼ばれる人々が、ギリシャ語単語で男性の語形を用いられているにも関わらず、愚かな者(ギ:モーラ)、弱い者(ギ:アステネー)という単語には、中性の語形が使われている。中性の語形は、性別のない道具、若しくは子供、即ち取るに足らないと判断されるものに使われる語形で、愚かない人や弱い人が、如何にギリシャ社会の中で存在価値のない無価値なものとして扱われていたのかが、その文法からもうかがい知る事が出来るのである。


〇取るに足らない、見下されている、無に等しい
取るに足りない(ギ:アゲネー)は、身分の低い者を指す言葉であり、道徳的な価値がないという意味合いを含む単語である。また、見下されている(ギ:イグゾーセメナ)は、一瞥する価値も無い、見下されているという辛辣な意味合いを含んでいる単語である。更には、無に等しい(ギ:カタルゲセー)は、この世の目にはうつらないもの、即ち存在価値そのものがないという意味合いで、最大限の辛辣な単語である。将来性の項目でも解説したが、これは周りから人間的にこのような評価を相対的に受けている人を神が召し出されたのではなく、事実、神からの絶対評価として「そう」だと判断された者が召し出されているという点で、本当に一切の救いがない事実宣告である。しかし、誰が何と言おうと、私達は、神に選ばれ、召し出されて洗礼を受けた以上は「そう」である事を受け入れなければならない。神の前に私達は無価値であり、空の器であるが故に、神はその無価値さを尊いと判断して私達を掬い上げ、用いて下さったのである。そのような意味では、パウロのように私達もまた、自身の弱さについて誇る事が出来るかもしれない。私達は弱さの故に、神に選ばれたのだから。


〇神の御前で誇る事がないように
29節の誇るかもしれない(ギ:カウケセータイ)は、仮定法中動相アオリストで記されている単語であり、誰かが神の御前で自身の何らかの要素について、自慢を行う可能性を示唆している単語である。これは、この世の終わりの時に至って、キリストの福音によって救われた者の中からそのような存在が発生するかもしれないという可能性について言及しているのであり、実際に神の前で誇っている者がまだいるわけではないのであるが、神は御心によって、その可能性の一切を予め潰してしまわれているのである。これは、勿論神の前で高ぶる者が出ないようにという目的の為であるのだが、実はそれ以上に、神に誇ることで神と敵対し、救われたにも関わらず、神の敵として滅ぼされる者が出ないようにという、神の側からの恵みの配慮なのであるのかもしれない。


〇しかし
パウロは30節から、しかし(ギ:デ)という接続詞によって、全く逆のことを話し始める。この反転は、「しかし、その一方で」という意味合いがあり、神によって愚かであり、「存在価値が無いと判断されたからこそ選び出された」という辛辣な言葉をしっかりと受け止めた者ほど、希望の言葉となる。確かに、この世から見れば私達は無価値で愚かな者であると神から判断されはしたものの、この世のどのような尊い者も凌駕する、彼らの持ちえない神の知恵、即ち、義と聖と贖いを私達は持たされているとパウロは主張する。この段落に於けるパウロの話の本題はここから始まる。


〇イエス・キリストの内にある
 キリストの中に入っている、という表現は、それだけ密接に神とのつながりを保っているという意味合いの言葉である。そのように私達を包み込んでいるキリストが、神からの知恵、即ち義と聖と贖いになられたという言葉は注目に値する。私達はこの世のどのような知者ですらたどり着く事が出来ない不思議な知恵に包まれ、守られているのである。
 それは例えるなら、私達は古代ギリシャの哲人との哲学問答には勝てないかもしれないが、スマホを持っているので、その情報端末の故に、その哲人を完膚なきまでに言い負かす事が出来るとか、そういう類の話がここに実現している。私達はスマホがどういう理屈で動いているのかも説明できないが、その力は確かに手の内にある。
 同じように、私達はキリストの十字架に纏わる神の知恵の全貌について、説明する事も解き明かすことも出来ないが、私達は確かに十字架のことばという神の叡智によって取り扱われており、それ故に、例え自分自身がどれほどに愚かで価値が無くとも、この世界のあらゆるものが手に入れない素晴らしい宝を手に入れて、勝利することが出来るのである。


〇神の知恵
 私達は、このように、愚かな者と呼ばれる、即ち非理性の内に生きる者達と断ぜられる人々こそが、十字架の言葉によって回心している様子を見る事によって、神の知恵が人間の知恵を凌駕する様子を直視する事が出来る。

 イエス・キリストがただの卓越した人間であるならば、その言葉によって悔い改める人々は、皆知恵ある者、哲学する者達であっただろう。何故ならば、卓越した論説によって心打たれるのは、その卓越さを理解できる知性ある賢者だけだからである。しかし、事実、知恵ある人々の中で悔い改めた者もいたが、キリストの教えによって悔い改めた人々の大多数は、知性を持たない悪人や、悪徳な取税人、また情欲に溺れて罪びとと揶揄される人々であった。この事実によって神の知恵は、知者にしか響かせることの出来ない人間の知恵を、軽く凌駕していると言えるのである。
 また、イエス・キリストがただの詐欺師であったならば、そのような知恵ある人々ではない、知恵のない人々を扇動していいように操るだけの結果に終わったことであろう。詐欺師の口車には、愚かな者しか乗る事が無い。時折、一部の知者が愚かにも騙されることがあるかもしれないが、人々の頂点に立つ賢者は決して詐欺師ごときに騙されることなど有り得ない。そうであるにも関わらず、真にいえるの前にひざまずいたのは、ニコデモやアリマタヤのヨセフのような、人々から認められる頂点に立つ賢者であった。この事により、キリストの十字架は、この世の賢い悪人の知恵すらも遥かに上回る、人間を凌駕する叡智によって構成されている事が解るのである。

 また、キリストが知恵になられたという言葉を持って、キリストが人として生まれ、十字架に掛かり、復活し、父なる神の右の座に着かれると言う一連の出来事を通して、人格的、擬人化された知恵そのものになられたと言う側面も強調される。即ちキリストはそれそのもので知恵なのであり、生ける知恵そのものなのである。

 その中で、キリストが私達の義と聖と贖いになられたとパウロが言っている事は重要な事である。私達は、私達を取り囲むキリストの十字架の血潮によって、信仰による義認も、そして身の内の罪からの聖めも、そして終わりの日の裁きすらも代理されるのである。私達の罪を贖うのはキリストの十字架による血であり、私達を招いて救いを信じさせて下さった力も十字架のことばである。そして、私達が少しずつでも自身の内側を良いものへと変えられて、キリストに似た者とされ(Uコリ3章18節)、終わりの時の裁きに纏わる自己弁護の過程すらもが、主の十字架の血潮によって私達の代わりに行われるのである。それ故、例え私達がこの世界の中で本当に無そのものであるにしても、神の御業は何の問題もなく進んでゆくのである。正に私達は自分自身の中に何も良い要素は無いが、それらすべてをキリストだけの力で成し遂げて下さるのです。これこそが、神の知恵による御業そのものなのである。 


〇誇る者は主を誇れ
 パウロの引いている御言葉は、エレミヤ書9章24節からの引用である。主以外の何者をも誇りとしてはならないという戒めの言葉でもある。力や知恵、権力、財産など、私達は主以外のありとあらゆるものについてより頼んではならない。それらの物を持っていないから自分は大丈夫であると考えるのは浅慮である。それらの物をみて「自分もこれさえあれば」と羨んでいる時点で、最早それは神以外の者により頼んでいるのと同義なのである。

 私達は神の知恵に包まれているが故に、例えこの世的には何の価値も無く、またこの世の知恵から見れば愚かに見える十字架のことばを信じているのだとしても、あらゆるものに対して勝利する事が出来、あらゆるものよりも尊い者として神に扱われる事が出来るのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇召しの選び方
26a 兄弟達、自分の召しの事について考えて見なさい。
26b 人間的に見れば(肉による)知者は(このコリント教会の中に)多くはありません。
26c 力あるものも多くはありません。
26d 身分の高い者も多くはありません。
27a しかし、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者(即ち私達)を選ばれました。
27c 強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者(即ち私達)を選ばれました。
28a 有るものを無いものとするために、神は選ばれたのです。
28b 何を?1:この世の取る足らない者。
28c 何を?2:見下されている者。
28d 何を?3:即ちこれら無に等しい者。
29  (それは)肉なる者がだれも神の御前で(自分のあらゆることについて)誇る事がないようにするためです。


〇キリストは私達の知恵になられた。
30a しかし(キリスト者がこの世的には愚かな者であると言うその一方で)、あなた方は神によって、キリスト・イエスの内側にいます。
30b キリストは、わたしたちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
31a (これは聖書に)書いてある通りになる為です。
31b 内容:「誇る者は主を誇れ」と



着情報3.メッセージ

『神を誇る』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 1章26〜31節
中心聖句:『「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(Tコリント人への手紙1章31節) 2022年8月28日(日) 主日礼拝説教

 私達は、この世で様々な力を用いて生活しなければなりません。財力、社会的地位、知識、そして純粋な腕力が必要になる時もあります。しかし、それらは決して、キリスト者にとっての拠り所とはなりません。私達はそれ以上の拠り所によって、この世に勝利するからです。

 パウロは、コリント教会の人々に「あなた方は自身の地位や力、知恵によって神様から選び出された訳ではない」という事を訴え、自分達の召しについて一端立ち止まって考えるようにと呼び掛けました。何故なら、コリント教会に集うクリスチャン達の大半は、力の無い社会的弱者ばかりだったからです。彼らは「取るに足らない者」、「存在価値の無い者」と周囲から評価され、軽蔑されている人ばかりでした。しかも、その評価が妥当な評価であることは、パウロが続けて言う、「神様は存在価値の無い愚かな人々を、御自身の計画の為に敢えて選び出された」という言葉によって保証されてしまいます。そのような愚かで弱い人々が、互いの能力や知恵について競って言い争っているのは、なんとも的外れで滑稽な話であると、パウロは少々辛辣な言葉を人々に投げかけているのです。しかしそれは、再びイエス様が地上に来られたその時、誰も神様の前で自分の救いについて誇ることが出来ないようする為であるという、神様の知恵による御心の計画でありました。その知恵に従って私達は選び出された訳なのですから、救われた人々は、等しくこの世で価値の無い一人一人なのです。

 では、そのように召し出された人々はただの弱者で、この世では何の勝利も納める事が出来ないのでしょうか。決してそうではありません。確かに、御心によって召し出された人自身には何の力も価値もありませんが、共に居て下さるイエス様には、私達を勝利させる大きな知恵と力があります。イエス様は私達の罪の罰の身代わりとなって十字架に掛かる事で、義と聖、贖いという神の知恵そのものを齎す存在となって下さり、共に居て下さるようになったのです。罪が赦され、内面が一新され、罪から贖い出されて永遠の命に至る道は、この世界のどのような強者も知者も見出す事の出来ない究極の真理です。しかし、私達はどれだけ愚かであったとしても、神の御子であり、救い主であるイエス様とつながる事によって真理に至ります。何故なら私達は自分の力ではなく、十字架の力によって救いの中に入り、内面から聖められ、永遠の命を与えられるからです。イエス様は、道となり、真理となり、命となって、私達を正しく、父なる神様の御許へと導いて下さいます(ヨハネ14章6節)。それ故に私達は、イエス様以外の何ものをも必要とせず、この世の人々に対して勝利する事ができるのです。

 私達は神様の選ばれた何もない一人一人ですが、神の知恵であるイエス様が与えられています。それ故に、私達は自身ではなくイエス様と父なる神様を誇って、この世の中で戦っていくのです。私達の信じる神、主は生きておられます。だから私達は、自身の弱さすらも喜び(Uコリント12章9節)、頭を低く遜って、共に在るイエス様にお仕えしていきましょう。



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