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牧師の説教ノート(8月7日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 今回の箇所から、パウロはようやく前置きを終えて話の本題に入っていく。それは、分裂が起こっている事を聞いたが故に行われるパウロからの諫言であり、兄弟たちが一致するようにという勧めの言葉でもある。
 

〇さて(しかし)
新改訳では、「さて(ギ:デ)」と訳されている接続詞は、逆説の接続詞である。
これまでの兄弟たちに現わされた賜物を喜ぶのと同時に、パウロは兄弟達の間で起こっている不安な事を語る為に、逆説を用いて、手厳しい事を宣べ始める。知恵に依らず、一つの福音によって救われたという事実は、私達にとってこの上なく大切な事なのである。


〇兄弟達
パウロは、お願いしますという言葉と併せて、兄弟達という愛を持った呼びかけを行う。これは攻撃による言葉ではなく、手厳しい事を言いはするものの、その動機は完全に兄弟達をいつくしんでのものである。
それは、パウロが党派的な言葉を用いて、一斉に号令をかけた時、益々党派による分裂が加速してしまう事を危惧してのものである事は明らかであろう。パウロが号令をかければ、「パウロ党」に力を与えるだけとなり、パウロにとっては、その目論見の逆の現象を引き起こす事になるであろうことは明らかであったからである。


〇語る事を一つにして
そのままの意味であるが、ギリシャでは政治用語として扱われる慣用句で、平和条約を結ぶ、または共存を宣言する際に良く用いられる常套句であった。しかし、ここではそれ以上に、各々の党派のスローガンを捨てて、共存し、意見をまとめるようにという意味で使われているようである。


〇仲間割れせず
仲間割れ(ギ:スキスマータ)は、直訳すると「分派、分立、分争、意見の相違」である。新改訳では、「仲間割れせず」と訳されている。直訳するならば、「貴方達の中で意見の相違を起さず」であるが、まだ教会の中での聖餐は行われていたようなので(それについても非難はあるが)、内部的な意見の相違の意味合いで使われていると考えられる。
これは、即ち「私はパウロに」「私はアポロに」と言いながらも、まだ完全に教会の中で分派は起こっておらず、教会がいくつかのチームに分割されて反目しあっている状態には至っていない事を指していると受け取ってよいでだろう。少なくとも、パウロが手紙を書いた時点では、まだ教会の中の分裂は決定的な物では無かったようである。しかし、既にパウロ派、アポロ派などの深刻な党派分裂の芽は確認されており、そのまま放っておけば分裂が決定的なものになるのは時間の問題であった。それ故にパウロは、冒頭で分裂の愚かさを説いたのである。


〇同じ心、同じ思いで一致してください
同じ心(ギ:ヌース)は、気質や精神構造、また思い(ギ:グノーメー)は特定の問題への決め方や判断基準をあらわす。
一致(ギ:カタルティゾウ)は、実はもう少しややこしい単語であり、「ぴったり合う、完全な状態にする、適切な状態にする、準備する、一緒にまとめる」といった意味がある。
他の箇所では、網を修繕する(マタイ4章21節)とか、信仰の不足を補う(Tテサロニケ3章10節)という意味で取り扱われている。
つまり、機械の部品を修理したり、正常に動くように整備を行ったり、壊れた物を修理する際に用いられる表現である。また、ヘロドトスの著作「歴史」では、内紛を収める際にも同様の単語が用いられている。

「(あなた達は意見の相違を起こすのではなく)貴方達の判断がよく働くよう正常な状態に修繕してください」が直訳である。
一致とは何か。心を一つにするというと聞こえはいいが、その定義は漠然としているだろう。それは意見をすり合わせて、皆が同じ考えを持つようになる事を意味するのである。即ち、全員がよく話し合い、一つの物事に対して「同じ見解」を持つようになる時、教会は「一致している」と言えるのである。

例えば、意見が相違して食い違う事があったとしても、「意見が食い違っている状態なので、お互いに納得できる結論を出さないといけない」と言う判断が教会の中で共通認識となっているならば、その教会は反目する課題があったとしても「一致している」のである。結論は後からゆっくり話し合って決めればよい、問題なのは、説明なく、お互いがお互いの考えを理解せず、大体の方向性も見出すことが出来ていないときに、教会は「分裂している」状態になってしまうのである。


〇クロエの家の者達と、非難の論拠になる証言
名前の意味は、「最初に出た緑の若穂」であり、女性系単数で書かれているので、彼女は女性である。元々は異教の女神デルメルにつけられた名前で、ギリシャ社会では人気の女性名である。彼女がコリント教会の信徒であったのか、それとも親しいだけの情報通であったのかは分からない。クロエの家の者達、と記述があるので、実はクロエは今回の一見の伝聞には関わってすらいない可能性がある。(おそらくは彼女の子供か、若しくは仕えている奴隷たちの信者であった可能性も高い)
直接名前を出せば、「クロエ家の者達」がコリント教会での立場が悪くなるだろうことは当然予測できるので、パウロが名前を出している以上、この人々はパウロが手紙を書いているエペソ教会の信徒である可能性は高い。

パウロが態々彼らの名前を挙げたのは、不確かなうわさ話や、憶測や推測で非難を行っている訳でないことを明らかにするためである。もし、パウロがそのような事を行えば、余計に教会は荒れるであろうし、牧会的な配慮から情報源を伏せるような事をすれば、コリント教会は疑心暗鬼に陥って、分派は加速するばかりである。
また、長老に対する訴訟には証人が二人か三人か必要であることは、パウロ自身が指導していることであり、コリントの教会を指導者含め非難するパウロの手紙にも、この原則は適用されるべきであった(Tテモテ5章19節)。コリント教会に長老のような指導者が居たうえで、今回の問題が起きていたとするならば、その問題は根深く、順序を踏んで慎重に対応する必要があった。

クロエの家の者達がどのような経路で、コリントの分派をしったかは分からないが、しかし、クロエの家の人々、また、実情を知らせに来た、ステパナ、ポルトナト、アカイコの三人と併せて、明確な証人によって、非難を含む手紙を書いたことを、パウロは明らかにするべきであった(Tコリント16章17節)。
「クロエの家の人々」は、コリントの教会の人々にも有名な信徒であり、パウロとも親しい間柄であったということは予測できる。でなければ態々名前を挙げる意味はないし、挙げたとしても「どこの馬の骨とも知らぬものの言葉に惑わされた」とパウロを非難する人々が確実に出た事であろう。そうでないのだから、彼らステパナ達と併せてコリント教会でも有名な信徒なのである。


〇パウロ、アポロ、ケファ、キリスト
党派分裂の具体的な内容については、想像の域を出ない。少なくとも、パウロとアポロについては言っている事に大差は無く、パウロはアポロを非常に強く支持している(Tコリ16章12節)。アポロは修辞学を用いて演説するように説教を行い、パウロは神学に基づいて理詰めで説教を行った。このスタイルの差でおそらくは分裂していると思われる。

ケファ(ペテロ)は、それら二人の直接的な指導者ではなく、エルサレムの「本部」の指導に従うという意味かもしれない。ケファはパウロに避難される程度には律法主義から脱却しきれておらず、アンテオケでパウロから避難されているようなこともあったので(ガラテヤ2章11節)、律法主義派の人々から見れば旗頭に挙げることが出来たのかもしれない。

キリストにつく、と言う人々は派閥というよりは、どの党派にも属さない無党派主義の人々であった可能性もあり、人間の教えによらず、直接霊的な賜物を受ける、所謂聖霊派ともいえる人々であった可能性は高い。勿論、彼らもまた「そういう派閥」であり、一人一人が孤軍奮闘していた訳ではないだろう。

つまり、「インテリ雄弁派」「リベラリスト」「聖書(律法)厳守主義」「聖霊派」の四グループが争っていたということなのだろう。これは現代の教会でも起こりがちな分派グループである。しかし、結局の所、これらの派閥そのものが「排除すべき物」とされている所から、パウロは具体的な言及については取る足らないものとして省略したようである。

この分派については、クリスチャン・パワーが、その著書に於いて仮説を立てて言及を行っている。キリスト派、ケファ派は元々のユダヤ人改宗者やキリスト者で、パウロは、ケファ派が異邦人クリスチャンの派閥であるという考え方である。現代でもこの考えは、批判、討論のベースになっており、強い影響を与えている。


〇キリストの分割、洗礼論争
キリストはわけられてしまったのか?という部分については、解釈が難解であるが、キリストの身体である教会について言及していると考える事が出来る。これは、物理的な分割が可能なのか、というよりは、体が分割されれば用を為さないように(腕が切り落とされれば単独で動けないように)、教会もまた、分割して独立して動く事は不可能であると言う言及でもある。右手と左手が違う意思をもって動く事は無い。ばらばらに動いていても、それは一人の人間によって動いているのだから、やはりその行動には一貫性がなければならないのである。

また、同時にキリストの原理、救いについての考えかた、キリストによる救いの定義ともとることができる。
パウロは彼らに基本原則を思い起こさせている。キリストが分裂することはない。即ち、キリストの他には誰も十字架の贖いを成し遂げる事は出来ず、そして、キリストの名によって受けたバプテスマだけが、彼らの上に共通して効果があるという事である。
これらの事から、彼らコリント信徒の問題点が浮かび上がる。それは、

1.キリストによる十字架が、信仰の絶対的な中心である事を見落としている事。
2.キリストの贖いは、キリスト以外には絶対に成し遂げる事の出来ない事を理解していない事。
3.バプテスマは、誰に授けられても、その大本はキリストによる事の重要性を理解していない事。
である。

キリストが十字架に掛かったのは、勘違いされることは多いが、彼の宗教理念や教えの順守、また筋を通す為に、自らの教えや主義主張に準じて、殉教する為では無かった。キリストは他でもない、私達罪びとの利益となる為に、正に不当な死を、十字架によって受け入れさせられたのである。
それは、何一つ罪のない、義人、即ち完全な人であるキリストだけが、成し遂げられることであった。この義人たるキリストだけが、私達の罪の罰の為に身代わりになる事が出来たのである。当然、パウロとて、その十字架の死によって不正な利益を得た罪びとである。彼がキリストの代わりに十字架に掛かる事は決してできない。それをパウロはここで訴えているのである。

また、当時は、洗礼は、授ける者と、受ける者を特別に結び合わせる絆のようなものをつくりあげるという誤解が、教会の中で蔓延していた。しかし、それは全くの勘違いである。キリストから与えられる罪の赦しだけが、私達の救いに何より欠かせない重要な真理であり、絆である。洗礼を授けている全ての使徒や教師達は、ただ、キリストに代わって洗礼を授けているだけの代理人に過ぎず、誰であっても、洗礼を受ける人は、その代理人を通じて、その委託元であるイエス・キリストから洗礼という絆を授かっているのである。だから、私達が持っている洗礼による絆は、キリストとのもののみである。誰から洗礼を受けたという議論は、全く意味のない事である。


〇パウロが受洗した人々。
パウロは一部の例外を除き、誰にも洗礼を授けていない。
クリスポは、コリント教会の会堂司の人である(使徒18章8節)。
ガイオは、当時のコリント教会の集会所となっていた場所の家主であり(ローマ16章23節)、使徒18章7節にでてくる「テテオ・ユストという神を敬う人」と同一人物であるかもしれない。神を敬う人とは、所謂求道者の事であり、その後にパウロから洗礼を受けたのだろう。フルネームが、ガイウス・ティティウス・ユストゥスなのだと考えられる。
ステパナとその一家は、アカヤの初穂と呼ばれ人々で、最初の受洗者である。この一家は、身をもって聖徒に奉仕したと言われるから、一家をもって主に奉仕した人々なのであろう(Tコリント16章15節)。アカヤの初穂と言われている事から、恐らくは彼らはアテネ伝道の時に洗礼を授けた人々なのだろうと思われる。現在はコリントに転会して過ごしているなら、パウロがうっかり忘れていたのもうなずける。その教会での授洗者を数えて居たら、うっかり前の教会からやってきた人を忘れていた、というのは牧師でも良く起こる話である。

洗礼を授けた覚えがないと言い切った後で、補足するようにステパナの家について言及しているが、それは整えられた文章ではなく、口述筆記(しゃべっている事をそのまま記録した調書)の手紙をそのまま送ったことの根拠となる。恐らく忘れていて慌てて追加したのであろう。これ以上は覚えがないといっているので、恐らく記憶に多少自身が無い事が伺える。パウロも人間であるから記憶が多少あいまいになるのは当たり前のことであろう。まして、パウロが「自分が何人に洗礼を授けた」とか、「誰に授けた」事を、スコアのように誇る人物ではなく、主の栄光の実を追い求める人であったからなおさらである。彼にとって、授洗の数ではなく、救われた人が出た事実そのものこそが重要であり、喜びなのである。

本来、こういう言い忘れて追記したことなどは、口述筆記させたあとで本人が後で筆をとり、全体の体裁を整えるのが普通なのだが、その時間も惜しいほどに早く、パウロがこの手紙をコリントへ送りたかったのだろうことが伺える。聖書は神の霊感を受けて書かれた誤りの無いものであるが、さすがに筆者の記憶違いやうっかりした物忘れまでを完全に排除する神がかった超自然的なものではない。また、写本の際に移し間違えたりして、内容が不正確になる事も多々起こる。しかし、憐みによってパウロがステパナの家について思い出したように、そういった誤りや間違いも、後の追記や訂正によって修正され、神様の御心に適うものへと完成していくのである。聖書の写本も、数千が検討され、現代でもより正確な原文に近づけるように、聖書学者の師たちが日々奮闘しているのである。


〇洗礼を授けなかったことを神に感謝
パウロが独特の言い回しをおこなっているのは、それがパウロの狙って行った事ではなかったからであろう。本当に、たまたま一部の少数の人々以外には、洗礼を与えるチャンスが無かっただけなのである。しかし、それはただの偶然ではなく、神の御心による導きの結果であったことを、パウロは後から知ったのである。
結果論に思えるかもしれないが、神の導きの御手は、常に結果論でしか確認する事が出来ない。たまたまだと思っていたことが、明らかに偶然とは思えない緻密さで、全ての物事を良きに導いている。その御業を見て信じる時に、私達は神への信頼という信仰を勝ち取るのである。
結果的に、「私はパウロから洗礼を受けた、パウロ生粋の子飼いの人間だと、名乗りを上げる人物」又は、「周りから、あいつはパウロから洗礼をうけたパウロ主義者だとレッテルを貼られる人間」が出なかったせいで、分派争いに決定打が与えられる事が無かったのである。(恐らく、アポロとの特別なつながりを主張する人間でなかったという理由から、アポロも説教を行うだけで、授洗に対しては関りはなかった事が伺える)。現代でも、信徒、求道者問わず、誰から洗礼を受けたかを特別視する人物は少なくない。しかし、そのような迷信めいた儀式の執行は自分の仕事の範疇ではないとパウロは叫んでいるし、それは現代の牧師や説教者についても同じである。もし、そのように洗礼の儀式や礼典に余計な意味を付与しようとする試みがあるならば、その行為そのものが、「キリストの十字架がむなしくなる」ことへ加担しているのである。

また、パウロにとっても、伝道者にとっても、本来洗礼を授ける機会がなかったことは、残念な事以外の何者でもないが、そのような「悪い事」と短期的な感じる事も、神の御手の業の中では、結果的に「良い事」へつながるのである。


〇福音を、知恵によらず宣べ伝えるため
パウロの目的は終始、人々に、キリストただ一人によって与えられる十字架による贖い、罪の赦し、救い、そして福音の約束を伝達して「キリストの弟子」を作り上げることであった。バプテスマの儀式を授けるのは、それに付随するものでしかなく、それそのものが目的となることは有り得ないのである(勿論、バプテスマを軽視するような発言ではない。決して)。コリント教会の人々は、確かに多くの知識を持っていた。しかし、その知識による推察が、決して「信仰による霊的な目」になることは有り得ない。彼らは有り余る多くの知識によって、的外れな議論を行い、所謂「俗悪な無駄話」によって分裂の危機に瀕した。罪(ギ:ハマルティア)は「的外れ」という意味を持つ。どれだけの知恵によっても、信仰が伴わないならばその言説は的外れになる。的外れな言説は信仰を奪い、人々を躓かせる無駄話しか生み出さないのである。

では、洗礼等の礼典にはどのような意義があるのだろうか。それは、既にある信仰を強め、堅く立たせるための作用である。洗礼を受ける事によって、キリストを信じると口によって行った告白が更に確実なものとなり、それによって人々は、世の終わりまで堅く立って信仰を守り続けるのである。


〇知恵によってキリストの福音の力が無くならないように
17節後半部分については訳し方が色々あるが、直訳すると、
「私が派遣されたのは、キリストのバプテスマを授ける為ではありません。しかし、福音を宣べ伝える為でした。それは知恵による議論によってキリストの十字架の力が失われないようにする為だったのです」
となる。
色々と解釈の方法はあるが、知恵による議論、即ち理屈によって福音を宣べ伝える時、福音の力は失われるという事である。
私達は、何か言説を唱える時、過去の文献や、先人の記録に基づいて諭舌しなければならない。
それは神学に於いても同じであるが、福音に至っては、過去のどの知恵(それは即ち人間の言葉)に照らし合わせても、その力は失われる。
これは神の知恵によるものであるので、人間の知恵に基づいて組み立てられる体系ではないのだという事を現わしているように思われる。
キリストの十字架は、知恵で説明しきることが出来ず、相手を納得させるために語られてはならない。
ただ、ありのままに起こった事実、即ち、キリストが私達の罪の罰の身代わりとなって十字架にかかり、死んで墓に葬られ、三日目に死人の内より復活した事」を、私達は、言い訳せずに相手にそのまま伝えなければならないのである。
その時に、私達の言葉には力が宿るという事が出来るのかもしれない。


〇ポイント整理
1.教会は一つでキリストの身体なのであり、分裂して動く事は出来ないし、本来の仕事すら行えなくなる。だから一致して動かなければならない。
2.誰も、キリストの十字架の身代わりになる事は出来ないし、キリストによってしかバプテスマを受けられない。
3.私達は、キリストから与えられる受洗や他の儀礼について、その本懐である趣旨以外に、他の迷信的な特別な要素を見出してはならない。
4.私達は、キリストによって与えられた救いだけを、混じりけ無く真っすぐに見つめなければならない。余計な逸話、余計な考えを付与せず受け入れるからこそ、キリストの十字架は私達に救いを与える大きな力となるのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇一致への呼びかけ
10a さて、兄弟たち、私達の主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。
10b 内容1:どうか、皆が語る事を一つにして下さい。
10c 内容2:仲間割れをしないでください。
10d 内容3:同じ心を持ってください。
10e 内容4:同じ考えを持ってください。
10f 内容5:そして一致してください。

〇現況への憂慮
11a 私の兄弟たち。
11b 実は、あなたがたの間に争いがあると知らされました。
11c 誰から?:それはクロエの家の者からです。
12a (聞くところによれば)あなたがたはそれぞれ、このように言っているとの事です。
12b 内容1:私はパウロにつく。
12c 内容2:私はアポロに(つく)。
12d 内容3:私はケファに(つく)。
12e 内容4:私はキリストに(つく)。
13a (はたして、何時)キリストは分割されたのでしょうか。
13b (はたして、何時)パウロがあなたがたの為に十字架につけられたのでしょうか。
13c (はたして、何時)あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのでしょうか。

〇誰も人によってバプテスマを受けていない
14a 私は神に感謝しています。
14b 私は、あなたがたの誰にもバプテスマを授けて居ません。
14c,16a 例外:クリスポとガイオ、ステファナの家の者だけは別ですが。
15a ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、誰も言えないはずです。
16b 私は、(一部の例外を除いて)そのほかには、誰にも(洗礼を)授けた覚えはないからです。

〇十字架の証が立つ為にこそ、私は遣わされた
17a キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではありません。
17b ことばの知恵によらず、福音を宣べ伝える為(にキリストは私を遣わされたの)でした。
17c (何故、キリストがそのような事をされたのかと言えば)これはキリストの十字架が空しくならないようにする為だったのです。

着情報3.メッセージ

『分派の愚かさ』
聖書箇所:コリント人への手紙 第一 1章10〜17節
中心聖句:『これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。』(Tコリント人への手紙1章17節) 2022年8月7日(日) 主日聖餐礼拝説教

 パウロは、いよいよ本題であるコリント教会の分派について言及していきます。まだ、教会内の分裂は決定的なものではありませんでしたが、分裂の危機は徹底的に排除しなければなりません。パウロは、完全に分裂する前に全ての基本を見直すよう人々に勧めます。

 パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派など、いくつかの派閥に分かれて争っている状態は、コリント教会にとって大変憂慮すべき問題でした。現代の教会内でも、多くの主義主張による派閥が良く起こります。私達人間は集団で暮らす生き物なので、どうしても意見の相違で対立したり、同じ意見を持つ人が集まって派閥化したりする事を避けることが出来ないからです。しかし、そのように分裂していては、教会が絶対に立ち行かなくなります。その事を、パウロは良く知っていました。手は手だけで物を掴む事はできませんし、足は足だけで歩く事もできません。分派とはそのようなものなのです。もし教会が分裂する事になるならば、今まで当たり前のように行えていた働きすら果たせなくなってしまいます。だから教会は、一人の人間が自分の身体を動かすが如く、常に一致していなければならないのです。

 しかし、そのような分派も、御互いが気を抜かずに「イエス様だけをみつめる」という基本に忠実であるならば避ける事が出来るとパウロは人々に語り掛けます。パウロが12-16節で言及している通り、コリント教会の人々は、自分たちが旗頭に掲げる指導者について論争を続けているうちに、そもそも自分達はイエス様の十字架によって罪を赦して頂いた事も、イエス様を信じたから救われてバプテスマを受けられた事も失念していました。コリント教会の人々にとっては、イエス様を信じて救われたという基本的な事実よりも、誰によって洗礼を受けたとか、御言葉を教わったとか、そういった事の方が重要になってしまっていたのです。これは現代でもよく起こりがちな事です。「何某大先生から洗礼を授かった」と、誇らしげに自慢する人の姿は、決して珍しくありません。しかし、洗礼はあくまでも「イエス様を信じて救われたので、これからはイエス様と一緒に生きていく」事を確認し、周囲に宣言して、教会の共同体に入る為の儀式です。決して、洗礼を授けた人の深いつながりを持つ為のものだとか、自分の地位を確認する為のものではありません。もし、そのような「余計な付加価値」が洗礼などの儀式に求められるようになるならば、イエス様の十字架は途端に空しいものになってしまいます。何故ならば、イエス様の十字架だけが一番だという原則が崩れてしまうからです。

 私達は、「罪の罰を引き受け十字架の上で死んでくださったイエス様の犠牲」の上に今日も生かされています。それにも関わらず、その恩も感謝も忘れ、十字架以外の事に拘り、お互いに争うことは、余り賢明な事とは言えないのではないでしょうか。イエス様は私達を愛して、一人一人に生きて欲しいと願われ、十字架の上でで死んでくださいました。私達はその愛に生かされているのですから、お互いに支え合い、一致して歩んで行こうではありませんか。





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