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牧師の説教ノート(3月5日分)
聖書箇所:コリント人への手紙6章15〜20節

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 身体の取り扱いについて、コリント教会へパウロが訴えかける後半部分である。
 前半部分では、グノーシス主義、及び二元論者に対する反駁をメインに話を進めていたが、後半部分では、具体的に不品行がどのような重大な罪となるのかについて、説明を行っているようだ。

 パウロは、「あなたがたはしらないのですか」という言葉を多用し、既にコリント信徒が聞き、知っている筈の真理を再度繰り返して確認を進めていく。だから、コリント信徒はこの事について、「聞いたことがない」と言うことはゆるされない。何故なら彼らは、自分達がキリスト教を極めて、「既に完成した」と豪語していたからである。(Tコリント4章6-8節)

 パウロはこの言葉を繰り返して、三つの真理をコリント信徒へ提示する。

1.一つ目は、教会はキリストの身体であり、私たちの身体も、キリストの体の一部なのであるということ(ローマ12章4-5節、Tコリ12章27節、エペソ4章4節、5章23節、30節)。

2.二つ目は、身体を重ねた者同士は一体となり、一人の人間として扱われること(創世記2章24節、マルコ10章5-9節)。

3.三つめは、私たちの身体は神の宮であって、与えられた神の霊の住まいであることである(Tコリント3章16節)。

 これらの三つの事を踏まえて、パウロは身体の取り扱いについて言及し、その罪の致命的な重大性について少しでも早く気付くようコリント信徒へ警告する。
 何故なら、キリストの身体の一部を遊女とを結びつけ、それと一体とすることは「霊に於いても」神に対する重大な罪だからである。神の霊の宿る神の宮、それもキリストの一部をとって、遊女と交わり、それと一体になり、神の霊を穢すことは、私たちの主であるキリストへの反逆以外の何者でもない。

 何故なら、少なくともクリスチャンは、自ら進んでキリストの十字架の血潮によって、罪の罰から買い取られ、キリストの所有物となったからである。

 だからこそ、私たちの所有者は、最早私達自身ではなく、キリストである。だから、私たちは自分の身体を自分の所有物として扱ってはならない。むしろ、この身体によって、所有者であるキリストの栄光を現わすのである。


〇あなたがたは知らないのですか(15〜19節)
 「あなた方はしらないのか(ギ:ウーク・オイダテ・ホティ)」は、キリスト教の基本認識を呼び覚ます言葉である。この言葉は、いわば、サッカーに携わる人間に「サッカーは球を足で蹴る競技であるとしらないのですか?」と言うぐらいに、基本的な部分を尋ねる時に用いられる擁護である。まともな人間がこのような聞き方をされれば当然起こるだろうし、これについて起こる事が出来ないならば、余程致命的なミスをした後のことであろう(例えば前回のワールドカップのように、ハンドの反則を故意的に用いて失点を免れるような事態が起こったとか)。

 即ちパウロは、ただ単純に小言を言っているのではなく、キリスト教の立ち位置、即ち基本的な立場についての基礎的な事を確認していることを言い表す為にこのような呼びかけをしているのである。「聖められ完成したクリスチャン」をコリント信徒が自称する以上、彼らはパウロのこの言葉に、異を唱える事は出来ないし、知らないと返答する事も許されないのである。

 第一に、クリスチャンの身体は主の為に存在し、キリストかしらとして、その大切な神の御心を果たす大きな肢体の一部である。つまり、私たちの身体もまた、キリストの身体の一部なのである。
 そのようなキリストの身体を、私たちの一存でもぎ取り、勝手に娼婦や不品行を行う人々に投げ与えるようなことをしてはいけないとパウロは切に訴えている。

 第二に、誰かと身体を重ねる性行為は、その物と一体とされ、同一の存在として扱われる手段となる。これは、創世記2章24節に記されている御言葉である。これを引用して、キリスト御自身も、マルコ10章5-9節に於いて言及し、一度結ばれた者を引き裂いてはならないと教える絶対の真理である。
 口語訳では、この引用について「なるべきである」などという言葉を用いているが、パウロもキリストも、創世記も、「べき」などという言葉は用いていない。「ギ:ホイ・ディオ・エイス・サルカ・ミアン(その二つが内包された肉orその二つは一つの肉である)」と、原文では断定の主語として書かれている。その為、口語訳は誤訳といいかもしれない。

 したがって、遊女と身体を重ねた者、不品行を行う人と身体を重ねた者は、その者と一体となっていると、断定することができる。このような状態に成ってしまった時、パウロは、二つの罪が発生していると訴えるのである。

 一つ目は、キリストの身体を、もぎ取る(ギ:アラス)罪が発生していることである。これは、奪う、取り除くという意味であり、キリストの身体を略奪するという意味合いを持つ。言うまでも無く、キリストやその肢体である教会への反逆である。
 また、キリストの肢体は、手足やメンバー(構成員)という訳を行う事も出来る。自分自身が不品行を犯すだけでなく、他の兄姉をそそのかして不品行に及ばせることは、正に略奪以外の何者でもない。
 また、キリストの身体を不品行者や、遊女達の一員、若しくはその身体に混ぜ込んだということになり、多大な罪に問われる事となる、ともパウロは言及している。

 二つ目は、キリストの身体を、偶像崇拝者の一部に混ぜ込む罪が発生していることである。遊女(ギ:ポルネ)は、しばしば、神殿娼婦と言う、偶像礼拝に密接した儀式の中で売春を行う者も多かったことから、遊女という以外にも偶像崇拝者という意味合いも持つ単語として用いられていた。単純に遊女にキリストの身体を切り与えるだけでも大きな罪だが、それが偶像崇拝者である神殿娼婦、また神殿男娼であった場合は、キリストを偶像に仕える者と一体とすると言う、ただならない反逆を意味する事となる。現代でもどうだろうか。風俗などに出かけて行って、遊びで交わった相手が偶像崇拝者(即ちノンクリスチャン)である可能性はほぼ100%である。

 これらの二つの罪は致命的であり、ことの重大性に気づかなければならない。ほんの軽い気持ちで、とか、遊びのつもりだった、という言い訳は通用しない。クリスチャンにとっての「気軽な性行為」などと言うものは、この世には存在しえないのである。

 しかし、喜ぶべきことに、遊女や偶像崇拝者とでなく、主と交わる者は、肉的な意味で一つとなるだけではない。やがて、肉の身体を霊の身体に変えて頂き、霊として主と交わるのである。つまりどういうことか。この肉の身体は廃止される物ではなく、やがて、グノーシス主義者や二元論者が「崇高である」と主張している霊そのものとなるのである。私たちの身体もまた、霊に変えられ、この身体は永遠に神と交わるのであるから、私たちは、やはりこの身体を粗末に扱うべきではない。
 それ故に、パウロは、不品行を避けるように18節で進めている。不品行は、他の罪と違って、自身の身体に対して犯す特殊性のある罪であり、他の罪とは毛色が違うからだと、その理由を述べる。

 また、「避けなさい(ギ:フェウゲーテ)」と訳されている言葉は、直訳すると「逃げなさい」という意味になる。即ち、「常に逃げる選択をせよ」「いつも捕まらないように逃げていよ」と訳されるべき言葉である。これらは回避するのではなく、そこから逃げなければならない類の罪なのである。
 理由は至極単純で、人間は「ほどほど」などという事は出来ないからである。性の誘惑を怖いもの見たさで覗き込み、楽しんで、かつそのうえで取り込まれずに器用に逃げるなどと言う真似ができると考えて居るならば、それは愚かである。人間は誘惑に直面したら、逃げる以外にこれを避ける方法はないのである。

 では、身体の外に無い不品行の罪の特殊性とは何であるか。クリュソストモスはこれについて「からだ」の全体をけがれにどっぷりとつけこむ点で不品行は特別であり、その証拠に不品行の後には沐浴するではないか、といった趣旨の評価を行っている(クリュソストモス「コリント人への第一の手紙説教』18章2節)。要するに、不品行を働いた後は身体が汚くなっているから清めるなどということを、聖書に何ら関係ない輩ですら行っている所か鑑みるに、明らかに不品行は体に対する穢れそのものであるかもしれない。
 しかし、ここで言及されているのはそのような概念ではなく、私たちの犯した罪の影響範囲についてであろう。人を殺したり、盗んだりしたときに、罪に汚れて裁かれるのは罪を犯した自分一人であるが、不品行を行った時に罪に汚れて裁かれることになるのは、自分自身に加えて、自分の身体、即ちキリストの身体までその責を負う事になる。これは私達だけが裁かれれば済むと言う問題で無くなるということであり、私たちはこの事について、責任を負う事など出来ないのである。 

 第三に、私たちの身体は神の宮であって、神から受けた聖なる霊の入れ物である、ということである。これは、既にTコリント3章16節でも出てきた表現であるが、3章16節では、「教会全体が神の宮である」とパウロが論じた一方で、この箇所では、「あなた方一人一人が神の宮である」とパウロが言及し、前よりも更に一歩踏み込んで発言している。
 また、パウロは、私たちの身体を「宮(ギ:ナオス)」即ち、神殿、若しくは神自身が住む神殿の一角、即ち、本殿とか至聖所などと呼ばれる表現が用いて言い切っている。そして、そこに住まう神とは、三位一体の神である聖霊であるとも言い切っている。即ち、私たちが与えられて居る神の霊、即ち聖霊は、人格のないエネルギーのようなものではなく、正にはっきりとした人格があり、その意思をもって私たちの中に住まわれている、神なる方そのものなのである。聖霊の人格を否定する異端は、パウロのこのような表現をもってしても全て反駁される。聖霊は単なる霊的なパワーではない。
 しかし、これは殆どのクリスチャンにとっては忘れられがちな事実であり、しかし、決して忘れてはならない基本的な事柄でもある。それ故にパウロは、「しらないのか」とはっきり宣言しているのである。
 私たちが行っている不品行は、他でもない私たちの身体の内に住まわれている、人格ある聖霊なる神御自身が、はっきりと目撃し、知っておられるのである。


〇自分のからだをもって栄光をあらわせ
 私たちは、神の住まわれる宮であるのだから、宮なら宮らしい、聖なる生き方が要求されている。
 そう言われれば、「私たちの身体は私たちのものではないか」と云う人もいるかもしれない。その考え方は間違っていない。そのような人はクリスチャンにならなければ良いだけの話である。

 しかし、クリスチャンはそうではない。何故ならクリスチャンは自ら決断して、罪の罰から免れるために、イエス様の十字架に血潮によって買い戻して頂く事を依頼した人々だからである。このような人は、キリストの十字架の血潮を対価に、罪の滅びから買い戻された身なのであるから、その身柄が既にキリストの所有物であることを否定することはできない。対価は支払われ、その売り渡しに合意したのであるから、その契約は有効なのである。

 このように、私たちクリスチャンの身体は、他でもないキリストによって既に買い取られているのである。だから、私たちは、自身の身体に対して所有権を主張することはできない。

 そのように、私たちの所有権を保有しているキリストであるが、このキリストは保有している私たちの身体を、「聖霊、即ち助け主、真理の御霊の器にする」と宣言されてる(ヨハネ15章26節)。私たちを買い取ったキリストは、その送り届けた助け主、真理の御霊の器として私たちを用いられているのであるから、私たちは所有者であるキリストの意思に従い、自分の身体を取り扱わなければならないのである。

 また、「ですから(ギ:デ)」は、速やかにそれを行うようにという命令形に添えられて用いられる助詞であり、即ち「もうそんなことはとっくにやり終わってます」と、今言えるぐらいに、速やかに実行しなさいという、緊急の命令として取り扱われている。パウロのこの命令は、遠い未来に達成できれば良い努力目標ではなく、寧ろ現状完遂されていなければならないほどの、危急の命令である。コリント教会は一刻も早く、自分達が甚だしく勘違いしている不品行への認識を改め、それを悔い改めて行動に出なければならない。

 奈全裸、繰り返すが、私たちはキリストの十字架の血潮によって買い取られたのであり、その上で所有権は無く、キリストからその管理を委ねられているという立ち位置にいるのである。だからこそ、私たちはこの身体を自分の所有物として扱うべきではない。むしろ御言葉に従い、この身体を用いて、神の御前に忠実に生きるのである。


2.詳細なアウトライン着情報

〇キリストの身体
15a あなたがたは知らないのですか?
15b 何を?:あながたの身体は、キリストの肢体であることを。
15c それなのに、キリストの肢体をとって、遊女の肢体とする(つもりな)のですか?
15d そんなことがあってはなりません。

〇遊女と一体となる
16a そもそも、あなたがたはしらないのですか?
16b 何を?:遊女と交わる者は、遊女と一つのからだになります。
16c (なぜなら)「ふたりは一体となる」と(創世記2章24節で)言われているからです。

〇身体に対して罪を犯してはならない
17  しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
18a (だから)淫らな行いを避けなさい。
18b 人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。
18c しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

〇あなた方の身体とは一体何であるのか
19a あなたがたは知らないのですか?
19b 何を?:あなた方のからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた霊の宮です。
19c (そして)あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20a (なぜなら)あなたがたは、(十字架の血潮という)代価を払って(、キリストに罪から)買い取られたのです。
20b ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。

着情報3.メッセージ

『身体による栄光』
聖書箇所:Tコリント人への手紙6章15〜20節
中心聖句:『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。』(Tコリント人への手紙6章20節) 
 2023年3月5日(日) 主日聖餐礼拝説教

 肉体を粗末なものと考えるグノーシス主義者、二元論者を反駁(はんばく)した上で、パウロは具体的に身体を穢すという行為が、如何に重大な罪であるか言及していきます。私たちの身体は、神様の栄光を現わす為に存在します。決して粗末に扱って良いものではありません。

 パウロは、「あなたがたはしらないのか」という言葉で、クリスチャンなら当然知っているはずの知識に基づいてコリント信徒へ迫ります。即ち、私たちの身体はキリストの肢体である教会の一部であるという知識です。不品行は、その一部を切り取って相手と一体にしてしまう重大な罪であり、イエス様に対する反逆であるとパウロは宣べます。教会は、自身で決断して悔い改め、イエス様の十字架の血潮によって、全ての罪を精算して頂いた人間達の集まりなのですから、その肢体は神様の栄光を現わす為に用いなければならないのです。だというのに、例え自分自身の身体と言えど、キリストの身体を他の兄姉に無断で、しかもすすんでもぎ取って、不品行の中に投げ入れることは許されないことです。まして、『「二人は結ばれて一体となる(創世記2章24節)」と御言葉に書かれている通りに、不品行を行う人々の一部に、イエス様の肢体を混ぜ込むとは何事か』と指摘する、パウロの言い分は当たり前のことではないでしょうか。もし、その相手が偶像を崇める相手であったならば、その罪はことさら重大です。イエス様の身体を、偶像に従う人々の一部とすることは決して許されません。

 それだけでも問題ではあるのですが、更に不品行は、私たちの身体を「三位一体の神の一角である聖霊様を宿す器として用いる」と取り決めたイエス様への反逆する行為でもあります。イエス様が、私たちを、犯した罪の罰から十字架の血潮を対価に買い戻して下さったことは、クリスチャンならば誰でも知っている事です。それ故に、私たちは十字架の血潮にすがって罪への裁きを免除されたクリスチャンは、誰もがイエス様の所有物となっていることもわきまえなければなりません。そのような私たちの持ち主であるイエス様を無視し、まるで自分の身体を、自身の所有物であるかのように扱い、不品行を楽しむことは、正にイエス様への反逆そのものです。そして、そのような反逆的な行いを一番間近で目撃するのは、他でもない聖霊様御自身なのですから、私たちは事の重大さに気づかなければならないのです。

 私たちは、不品行によって他の肉体と一体となる為ではなく、信仰と希望によって、神様と一体になる為に日々を歩んでいるのだと、パウロは教会を励まします。人同士のつながりは、肉のつながりに過ぎませんが、神様とのつながりは、新しい命と霊なる新しい身体によって完全な結合をもたらす、永遠に至る素晴らしい交わりです。私たちはそれを目指して、自らの身体を大切に扱い、希望をもって日々を歩んでいるのです。私たちは、自らの身体についてどのように取り扱っているでしょうか。自らの身体を用いて、神様の栄光を現わしましょう。


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