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牧師の説教ノート(11月13日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 前回は7節までで、御言葉と、それを取り次ぐものに服従するようにと、パウロはコリント教会の人々に対して宣言した。今回は8節から13節までの後半部分である。パウロは、自分達が何やら聖められた、完成した、この世で尊い存在になったかのように思っているコリント人に、それが勘違いである事を厳しく言及していく。

 コリント教会を指導する立場にあり、今も論争の旗頭として掲げられているパウロやアポロは、福音伝道と自らの使命の為に、尊い存在どころか、蔑まれる存在として今現在も取り扱われている。主の為に日々尽くす中で、自らの弱さに直面し、自分の足りなさを痛感し、悶えるようにしてそれでも伝道に従事しているのである。

 そのような使徒達を差し置いて、自分達が足りている、強い、賢く、まして尊いと豪語している人々の傲慢さは、指摘されれば恥じ入るばかりの物である。無知であるが故に自分の分を弁えることが出来ないと言うのは、古来より、まさにコリント教会の人々が貴ぶ哲学の中ですら「愚者」であると教えられている。「己が無知である事を知る」ことは、正に本当の賢さに一歩近づく秘訣では無かっただろうか。

 今日の箇所は、私たちのこの世での立場についての幻想を打ち砕き、粛に自ら受ける苦難に目を向け、それに伏して従う決意を固める為の箇所である。読めば救いが無いように聞こえるかもしれない箇所ではあるが、しかし、事実、キリストのしもべはこの道を歩まなくてはならない。それでも勘違いしてはならないのは、このような苦難の道を行く中であっても、常に神は共に居て下さる事である。神が共に行かれるならば、私たちは死の影の谷を歩むときであっても、決して恐れる必要はない。また、粛に神に従う者を、神は決して軽んじられる事は無い。私たちは福音の前味を受け、神との喜びの交わりの中でその道を進んでいくのである。

 私たちは苦難の道を歩むが、その中には祝福もある。自らの立場を弁え、キリストのしもべとして苦難の道を歩み、その歩みの中でも神の恵みと祝福に預かり、福音の前味を受けて心満たされて生きる事が出来るのである。幸せな道と苦難の道は、私たちの信仰の歩みの中で不思議と両立する。私たちはその不思議を十分に知り、体験する時に、ダビデが心から賛美し喜んだ、神の御手の業の偉大さを、更に深く知るのである。



〇もう満ち足りています。すでに豊かになっています(8節)
 満ち足りている(ギ:ケコレスメノイ)は、満足、満腹、満たされている、などを意味する分詞である。
 豊かになっている(ギ:エプロウテサテ)は、金持ちになる、豊かになるという分詞である、
 自分自身の状態に対して満足しきっている、もう既に十分持っているという意味合いで用いられており、それが自分達の聖めとか、信仰とか、そういったものに対しての感想であることは文脈的に明らかである。

 キリストの教えの中にも「義に飢え乾く人は幸いである(マタイ5章6節)」とあるように、私たちは自身の聖めや、義を求める心については、常に飢え乾いた状態(即ち更に良いものを飽くなく探求する態度)が求められている。自分達が満たされていると考える事ほど、信仰生活上危険な事は他に無いのである。最早自分が「成った」と勘違いして歩みを止める事は、傲慢と不遜を招き、自分が何やら聖なるものであると勘違いして、「御言葉以上でない」という所から逸脱するようになり、最後には神よりも自分を高いものと位置づけ、神を捨てて自分の栄光に走るようになる。旧約聖書のギデオン(エルバアル)の例などを見てもそれは明らかであろう(士師記8章27節)。


〇私たち抜きで王様になっています。本当に王様になっていたらよかったのです。(8節)
 私たち抜きで(ギ:コウリス・ヘモン)は、私たちから離れている、隔離されているという意味の言葉である。
 アパートの別の部屋で、と言ったようなニュアンスが近く、抜きで、という新改訳2017聖書の訳は適切に思える。何にせよ、関係の無い所でそのような状態になっているのである。
 王様になっている(ギ:エバスィレウサテ)は、統治する、支配する、君臨するという意味合いが強い。王様になっている、と訳すると今一つ意味合いがつかみづらいかもしれないが、もう既に自分が全てを判っているかのように、周囲に対して信仰について指図するようになっているという読み方が、最も近いかもしれない。それは即ち、パウロ達の使徒や指導者、ひいてはその指導者を用いられている神を必要とせず、自分自身が神であるかのように周りを指導している状態を指しているのかもしれない。

 また、後に本当に王様になってくれていたらよかった、と文章が続く為、これに加えて、「王様」が、来るべきキリストの再臨の日に起こる私たちの完成(栄化)を視野に入れた言葉であることも踏まえて読まなければならない。総合するならば、「自分達の聖めは完成し、完全な者となった」という勘違いが正にそれなのだろう。
 確証はないが、テサロニケ教会出た不届き者などのように(Uテサロニケ2章2節、Uテモテ2章18節)、もう既に主の日は訪れて自分達が栄化されたと勘違いしているような信徒すら、コリント教会の中には多数存在していたのかもしれない。

 しかし、聖化、栄化への道はそのように手軽に手に入る者ではない。どれだけ厳しいと非難を受けようが、そこへ至る道が苦難の道である事は、誰にも否定されてはならない真理なのである。私たちは神の国に入る為に、多くの苦しみを経なければならないのである(使徒14章22節)。もし、コリントの人々が本当にそのような謙遜さで苦難を耐え忍んでいたならば、パウロが手ずから働く必要も、涙ながらに分争について訴える必要も無かったであろう。実際彼らは、神から遣わされた働き人にすら、満足に生活の糧を与えず、一切の苦難を全て避け、その重荷を働き人に全て背負わせたうえで、自分達は富み栄えて完成された存在であると思い込んでいたのである。控えめにいって正気の沙汰ではないだろう。しかし、これは現代に於いてすら、あらゆる教会で起こっている問題なのである。


〇私たちもあなたがたと共に、王様になれたでしょうに...(8-13節)
 そのように愚かな勘違いをしていたコリント教会の人々に向けて、決してそんなことは実現していないとパウロははっきり言い放っている。彼らは王様になるどころか、実際には神の御言葉を正しく聞く事や、噛み砕いて理解することすらできない、無様な有様の中にある。

 いえば、幼い子供がこの世の全てを理解したと言って遊んでいるごっこ遊びのような滑稽さがそこにはあった。何故そのように言い切れるかと言えば〜と、この後にパウロが、使徒の経験している苦難について一つ一つ並べ立てていく。
 
 使徒は、今もこの世で笑いものとなり、見世物となり、蔑まれて、良いように奪われてもてあそばれている。そのような姿こそが、本来のあるべき神の働き人の姿であるのに、そのような定めに一切従わず、もはや王座の上で胡坐をかいているコリント教会の人々は、正に思い違いも甚だしい状態の中にある。


〇死罪に決まったもの、最後の出場者・・・飢え、渇き、着るものものなく・・・中傷されては、優しい言葉をかけています。(9-13節)
 使徒として生きるならば、誰でも苦難を受けなければならないが、具体的にどのような苦難を受けているのかについて、パウロは実体験からそれを羅列している。その壮絶さは想像に余りあるもので、このような仕打ちを受けながらも、尚、キリストの十字架に報いようとしている使徒と、気楽なコリント教会の人々との対比は、より鮮明になる。

 死罪にきまったもの(ギ:エピサナチオウス)は、珍しい表現ではあるものの、死刑囚を現わす。死刑囚は、見世物として、闘技場での見世物の最期に引き出されるものであった。闘技場の観客は、白熱した剣闘の観戦の後、死刑囚が獣に食い殺される様を見て嗤い、フラストレーションを発散して留飲を下げ、帰るのだろう。そのような見世物として、一方的に食い殺される犠牲者は実に適切である。そのような惨めな状態に、使徒達を置いたのは他ならぬ神御自身である。そのような場所であろうと、神の民、キリストのしもべならば、甘んじて立ち、その苦難を受け入れなければならない。いや、事実使徒たちはそれを受け入れているのである。

 11節のひどい扱いを受ける(ギ:コラフィゾーメサ)は、ぶたれる、叩かれる、虐待されるを表す単語であるが、この単語は、意識的にキリストの受けた虐待(マタイ26章67節)の箇所と同じギリシャ語の単語を用いている。暗に、使徒達が受け入れているその苦難の立場を最初に受け入れて下さったのは、他でもないキリストである事を指し使命ているのである。

 罵る(ギ:ロイドロウメノイ)は、罵る、侮辱する、正面から悪口を言う等の意味合いがあり、陰口ではなく、面と向かって侮辱されている様子を現わす。当時は、罵られればその場で殺し合いが始まっても可笑しないような中で、逆に祝福(ギ:エウロゴウメン)を行うというのは、男らしくないと笑いものにされる事であった。
 迫害(ギ:ディオウコメノイ)は、追及し、迫害するという意味があり、中傷(ギ:ドウスフェモウメノイ)は、名誉を棄損されるという意味合いがある。

 何れにせよ、この世での名誉や自身の尊厳は、全て宣教の為に奪われているというのが使徒の受けている仕打ちである。そして、これらの全ての苦難は、他でもないキリストが、私たちの罪の罰を受ける為、十字架に掛かる為に耐え忍んでくださった苦難に外ならない。私たちはキリストに習う者であるのだから、このキリストが受けた苦難の道を、後から踏んで追いかけるのである。

 そのような道を歩まずに、キリストの受けなかったこの世での名誉を求め、党派心で争い、自分達がキリストよりもこの世で高いものであると考えているコリント教会の人々の振る舞いは、正に神の民としても、福音宣教の観点からも、キリストのしもべとしても失格であり、的外れ極まりないものなのである。


〇この世の屑、あらゆるものの、かすになりました
 屑(ギ:ペリカサルマタ)、かす(ギ:ペリプセマ)は、そのままの意味であるが、ニュアンス的には、屑は「あちこち掃除して出てきた捨てるべきもの、ひいては不要な存在」、かすは「あちこち磨いて出てきたこすりかす(消しゴムかすのようなもの)」という意味合いがある。

 要するに、完全に不要な者とされているということを言いたいのであろうが、もう一歩うがって物を見るなら、この世からは不要なものだと笑いものにされ、教会の中では利用するだけ利用され、「もう用済みだ」と投げ捨てられる。そんな仕打ちを日常的に受けているという事を言いたいのかもしれない。しかし、それでも尚、それが自分達の立場であり、神から与えられた仕事なのだとパウロは言い切るのである。
 「用済みだ」と使徒たちを投げ捨てる、「かすを出す側」の人々には、さぞ耳の痛い痛烈な批判であろう。

 更に「今もそうなのです」とは、勿論現在進行形である。コリント教会の人々は、もう自分達は完全になったのだから、口うるさいパウロは不要であると「かす」として排除しようとしている。最早その愚行は救いようのないほどに進んでしまっているのである。



2.詳細なアウトライン着情報

〇御言葉に従うことの勧め
6a 兄弟たち、私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上の事を述べてきました。
6b 何故?:それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶためです。
6c そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにする為です。
7a いったいだれが、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのでしょうか。
7b あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか?
7c もしもらったのなら、何故、もらっていないかのように誇るのでしょうか。


〇勘違いを正し、自分の立場を弁えよ
8a あなたがたは、もう満ち足りています。
8b 既に豊かになっています。
8c 私たち抜きで王様になっています。
8d (いや、)いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。
8e そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。


〇キリスト者の立場の例(使徒の境遇によって)
9a 私はこう思います。
9b 神は私たち使徒を、死罪にきまった者のように、最後の出場者として引き出されました。
9c こうして私たちは、世界に対し、御使い達にも人々にも見世物になりました。
10a 私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢いものです。
10b 私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。
10c あなたがたは貴ばれていますが、私たちは卑しめられています。
11  今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る者もなく、酷い扱いを受け、住むところも無く、
12  労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
13a 中傷されては、優しいことばをかけています。
13b 私たちはこの世のこの世の九頭、あらゆるものの、かすになりました。
13c (それは)今でもそうなのです。




着情報3.メッセージ

『この世での立場』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 4章6〜13節
中心聖句:『私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。』(Tコリント人への手紙4章13節)  2022年11月13日(日) 主日礼拝説教

 コリント教会の人々は、クリスチャンとして歩まねばならない苦難に目を向けず、寧ろ自分達は既に完成した聖なるものであると考え、高ぶりました。しかし、聖めはそのように簡単に完成するものではありません。パウロは私たちの受けるべきクリスチャンの苦難を語ります。

 コリント教会の人々は、もう既に自分達が聖めの完成された存在であると勘違いしていました。満ち足りている、既に豊かになっているとは、自分達に直すべき所など一切ないと考えているという事です。しかし、「義に飢え乾く人は幸いである(マタイ5章6節)」と、イエス様も言われている通り、私たちは常に自身が完成されたなどと考えてはなりません。常にイエス様に似た者となる為、私たちは聖めを求め続けなければならないのです。自分達が何か完成された者であるかのように高ぶることを、神様は決して喜ばれません。使徒であるパウロですら、自分自身の弱さについては常に思い悩み、聖めを求め続けていたのです (ローマ7章24節)。私たちの聖めは、イエス様が再臨される時まで完成することはありません。使徒であれ、牧師であれ、信徒であれ、誰も自身が完成したなどと思ってはならないのです。

 また、コリント教会の人々は、自分達がこの世で貴ばれるべき特別な存在であると考えて高ぶっていました。だから、彼らはあらゆる苦難から目を背け、厳しい御言葉には屁理屈で反抗し、痛みや負担の呼びかけにも一切応答せずに、使徒を養うこともしませんでした (9章12-18節)。耳に痛い御言葉からは目を背け、受けるべき重荷は避けて通るべきでしょうか。決してそうではありません。使徒たちは、この世での弱い立場を受け入れ、見世物のようにされても福音を宣べ伝え続けました。何故なら、私たちの罪の罰を身代わりに受けて下さったイエス様が、まずそうして下さったからです。イエス様はゲッセマネで苦難を受け入れ、あらゆる痛みを受けて十字架にかかり、私たちの受けるべき裁きを一身に引き受けて下さいました。パウロの受けた災難ですら、その苦しみに比べれば大したものではなかったのです(マタイ8章20節、26章67-68節etc..)。私たちは、イエス様に習う者なのですから、苦難から逃れることは出来ません(使徒14章22節)。自分中心ではなく、神様を中心として、日々、自分の十字架を負うて、イエス様に従っていかなければならないのです(ルカ9章23節)。

 私たちは、神の民としてこの世での苦難や、悪い立場も受け入れなければなりません。しかし、それを恐れる必要はありません。何故なら、苦難を受け入れて従う道には、それ以上の大きな祝福があるからです。神様は、自らに従う者を祝福し、慰めて下さり(マタイ5章3-12節)、御手をもって守り、決して倒される事のないようにしてくださいます(イザヤ43章1-4節)。私たちは、敢えて苦難の中を行く事で、それ以上に豊かで素晴らしい神様の御手の力を知る事ができるのです。それを知るダビデは、死の影の谷を行く時ですら神様を喜び、賛美しました(詩編23篇)。私たちはどうでしょうか。神様を信頼し、忠実に従っていきましょう。




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