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牧師の説教ノート(11月6日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 ここまで述べてきて、パウロは「兄弟たち」という温かい言葉をもって、総括するように結論を述べ始める。
 パウロはこれまでの全体を通して、教会を建て上げる役割や、土台、一致、神の宮の破壊の愚かさなど様々な事を語ってきたが、その全ての話題には、「神中心、人間中心のどちらに立つのか」という厳格な問いかけと迫りが込められた。そして、パウロはここまで諭説し、いよいよコリント教会の人々に実際に強く迫り始める。

 ここからの段落では、その端々に耳をふさぎたくなるような正論が並び、かつ、耳障りの良いとは決して言えない教えがつらつらと続いていく。それらは相手の不備を攻め立てるような愛の無い言葉ばかりに聞こえるかもしれず、かつまるで相手を裁き、戒めて引き倒すような意図が込められているのではと疑いたくなるような物言いである。

 しかし、これらは兄弟たちを追い詰めて、躓かせるためのものではなく、愛する兄弟たちが正しい道に戻る為に行われる荒療治のようなものである。それ故に、パウロはこれらを語る際に、「兄弟たち」という優しい呼びかけを何度も行い、コリント教会の人々を励ましている。

 私たちも、現代に於いてはこのように健全な教えを聞けば、心を痛め躓きそうになるかもしれない。しかし、それでも尚、私たちはこれらの厳しい御言葉に対しても耳を傾けなければならない。そうでなければ、耳障りの良い説教ばかりを追い求めるようになり、御言葉の中で解き明かされる神の御言葉を聞く事は永遠にかなわなくなるだろう。

 パウロはその荒療治の手始めに、神への従属を忘れて思い上がっている人々に対し、厳しく叱責を行う。この段落全体を通して、パウロの語っている結論は「自分達の立場を弁えろ」である。
 パウロはこれを言う為の前振りとして、5節までを述べていたようだ。「私たちは自分自身の評価に至るまでですら、神に従属すべき存在である」ということを、先んじて語っていたのである。忠実という言葉が用いられたのも偶然ではないだろう。私たちは徹頭徹尾、全て神に対して忠実に従属すべき立場にある。神への従属こそが私たち神の民の本質であり、ここから外れたものは最早それではないと言ってしまっても言い過ぎではないだろう。それほどまでに、神の権威に従属することは私たちにとって当たり前のことであるし、神の被造物として求められる責務でもある。

 今回の段落は、このように神への従属を促す為の叱責が主題であるが、その主題を取り扱う為に大きく二つの事が取り扱われているため、今回は一つの段落を6-7節と、8-13節の二つに分けて御言葉を取り次ぐ。
 今週は前半の6-7節について解説を行う。


〇当てはめて(6節)
 当てはめる(ギ:メテスケマチサ)は、適用する、姿を変える、外見を変更するという意味合いが込められている。三章全体などを通してパウロが話してきたことは、自分とアポロの立場に適用されるならば、という趣旨で話されてきたことである。それは、「あなたがたのために」という6節の宣言によって明らかにされる。
 それ故、パウロの話している事は、一部の特別な人々にのみ適用されるような特別なことであるかのように勘違いしそうになるが、寧ろ、これらの教えは聞いている側の信徒の為の勧めである。
 それは、度々、「あなたがたが」などと、二人称でパウロが話してきたことからも明らかであるとはおもうが(3章17節、22-23節etc..)、誤解の無いように、敢えてパウロは確認したのだろう。


〇「書かれていることを越えない」(6節)
 越えない(ギ:メ・ヒュペル)は、メの強否定と、ヒュペル(〜以上である)という前置詞の組み合わせで書かれており、後に、書かれている事(ギ:ハ・ゲグラパタイ)という言葉につながっている。ハは関係代名詞なので、「書かれている事以上ではない」というのが直訳であり、動詞が用いられてはいないので「越えない」は明らかに動詞を用いた意訳であるが、恐らくこの意訳は適切である。

 問題はゲグラプタイが何を指しているかである。元単語のグラフォウの直訳は「(書いてある事)」という意味であるが、他にも聖典という意味合いもある。それは、規約などに定められた職権や職務を越えないとも受け取れるし、パウロがこれまで書いてきた手紙や、他の励ましの資料に違反してはならないなどという解釈も候補にあがるが、恐らくは文脈的にも、聖書の御言葉以上の事に踏み込んではならないとパウロが言っていると考えるのが妥当であろうと思われる。

 尚、この言葉については、定冠詞「ト」が用いられており、これは良く知られている格言が後に続く際に用いられる用法である。恐らく「書かれていることを越えない」という言葉は、コリントでパウロがスローガンとして掲げるなどして、皆がよく知っていた言葉なのだろう。十字架の言葉は神の力である(1章18節)とパウロが書いていた文脈にもよく沿っている。

 ならば、聖書に書かれている事を越えて、書かれていない事にまで言及して言い争っている様について、パウロが物申したと考えて後の言論も読むのが適切であろうとここでは結論づけて、後の事を考えることにする。それはおそらく、御言葉に対して修辞学や、様々な哲学などを加えて御言葉を解釈しようとしたコリント教会の人々に対する戒めなのであろう。

 では、それによってコリント教会の人々が学ぶべき概念は何であろうか。それは、神に対する人間の従属という事であろう。神の御言葉は、人間が考える際に用いられる材料やヒントのようなものでは決してない。御言葉は聞いて従う為に存在する者であり、便利に自分の思考に役立てる為のツールではない。それ故、私たちは御言葉についてよく研究し、その御言葉が何を命じているのかを正しく受け止めなければならないが、その御言葉を使って、何か特別な事を云おうとか、自分の諭舌をより巧みにしようとか、相手を言い負かそうとか、そのような目的で用いられてはならないのである。御言葉は聖別されたものであり、自らの言いたいことをいう為に用いる者ではない。それを弁えないで御言葉を用いる時、私たちは神の民ではなく、寧ろサタンのやり方に習う反逆の民としての手法を用いる事になるのである(マタイ4章1-11節)。


〇一方に与し、他方に反対して思い上がらない(6節)
 これも、神の前に従う際にはとても大切な概念である。
 思い上がる(ギ:プスィウーセ)は、第一義に「膨らむ」という意味があり、その後に、傲慢、思い上がる、増長するという意味合いがある。膨らんでいくさまが、人間が傲慢になる様に似ていると考えるのは日本語だけではないようだ。
 この議論は、前述の「書かれていることを越えない」から派生している為、御言葉を聞いている信徒の立場から物事を考えるのが、文脈的に妥当であると考えられる。即ち、信徒が「書かれていること」を学ぶために用いる媒体の話である。信徒は御言葉を、教師によって「取り次がれる」。パウロが話す説教は「書かれている事」であり、アポロが話す説教も「書かれている事」である。御霊によって建徳的に取り次がれた「御言葉」は、聞き入れて従うに足るものである。二つの事が話されたならば、その取り次いだ人間が違っているとしても、全て神から与えられた「教え」であると考えて、私たちは服従しなければならない。一人の働き人の取次ぎだけを支持し、他の働き人の取次ぎを否定するのは、到底神に従う信仰者の姿ではないだろう。

 それを踏まえれば、「書かれている事を越えない」という言葉に込められたパウロの意図も多少見えてくる。即ち、御言葉に従うのではなく、それに対して哲学的な見地や、自身の経験、その他の「学識」によって、書かれている事を否定する態度が戒められているのである。御言葉の取次ぎに不平を言ったり、またそれを否定したり、一人だけの御言葉の取次ぎ以外の全てを見下げて受け入れないような態度は、全て「プスィウーセ(思い上がり)」であり、それらは絶対に是正されなければならない信仰の病巣である。

 「神の御言葉には服従すべきである」という大原則を知らず、また知っていても無視していた為に、コリント教会の中の分派争いが起こっているのだと、そのようにパウロは結論づけたいのかもしれない。少なくとも、「書かれていることを越えない」というスローガンを皆が共有していた以上、コリント教会の人々が、御言葉は服従すべきものであるという概念を知らなかったという事は出来ないだろう。


〇優れている
 優れている(ギ:ディアクリネイ)は、分離、区別、識別という意味があり、また疑う、ためらう、迷うという意味合いもある。「違いの分かる男」などは、コーヒーの宣伝でも良く耳にするフレーズであるが、あれがニュアンス的には近いものであろう。他の人々とは、良い意味で違う、抜きんでている、という意味合いから「優れている」という訳が成立する。何にせよコリントの人々は、これまでの態度や行動、言説から「私は他の有象無象とは違う優れた物である」と考えていたことは明らかであり、それ故に取り次がれた御言葉に対して従わず、また自身の理屈をこねてそれを否定し、教師をえり好みして、取り次がれた御言葉を否定する態度を取るのである。


〇貰っている(8節)
 貰った(ギ:エラベス)は、直訳すれば受け取った、である。
 受け取る、手に入れる、取る、掴む、の意味があり、英語に直すなら「ゲット」の単語に相当する。
 他人によって得なかったものがあるのか、という問いかけは、即ちそれぞれ独自のオリジナルがあるのかという問いかけであろう。全ては賜り物であり、私たちの内側から固有に湧き出た物など何一つない。
 それ故に、完全なオリジナルなど自分の中にはない以上、「自分は他とは違う特別な個体である」という幻想は完膚なきまでに否定される。そして、人から人へ渡されている「貰ったもの」の、元々の出所が神に帰属することを考えるならば、私たちは徹頭徹尾、思考から能力、ノウハウ、知識の全てに至るまで、神から与えられたものだけを用いて、この世界を生きているのである。
 それ故に、私たちは自分自身が特別な存在であるなどと言う、思い上がった幻想に取りつかれてはならない。
 遜り、自身の持つ全てが神からの賜り物であることを、甘んじて認めるべきである。
 そのような観点から、才能は「タラント」、または「ギフト」という言葉にも訳されるのである。



2.詳細なアウトライン着情報

〇総括
6a 兄弟たち、私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上の事を述べてきました。
6b 何故?:それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶためです。
6c そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにする為です。

〇あなたたちは優れていない
7a いったいだれが、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのでしょうか。
7b あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか?
7c もしもらったのなら、何故、もらっていないかのように誇るのでしょうか。
8a あなたがたは、もう満ち足りています。
8b 既に豊かになっています。
8c 私たち抜きで王様になっています。
8d (いや、)いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。
8e そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。

〇コリントの人々への叱責
9a 私はこう思います。
9b 神は私たち使徒を、死罪にきまった者のように、最後の出場者として引き出されました。
9c こうして私たちは、世界に対し、御使い達にも人々にも見世物になりました。
10a 私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢いものです。
10b 私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。
10c あなたがたは貴ばれていますが、私たちは卑しめられています。
11  今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る者もなく、酷い扱いを受け、住むところも無く、
12  労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
13a 中傷されては、優しいことばをかけています。
13b 私たちはこの世のこの世の九頭、あらゆるものの、かすになりました。
13c (それは)今でもそうなのです。




着情報3.メッセージ

『御言葉に留まる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 4章6〜13節
中心聖句:『私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため・・です。』(Tコリント人への手紙4章6節)  2022年11月6日(日) 主日礼拝説教

 パウロは先んじて、5節までで神様からの評価について述べてきました。それは私たちが、自らの行動、想い、その評価に至るまで、全てにおいて、徹底して神様に服従することを学ぶ為でした。神様中心に生きる大切さが、今日の箇所から再度確認されます。

 パウロは、2節で「管理者には忠実さが要求される」と述べましたが、それは私たちの信仰にとっても同じ事でありました。私たちには、神様からの御言葉に不平を言ったり、反対したりせずに、御言葉を素直に受け入れて従っていくという忠実さが求められます。にもかかわらず、コリント教会の中では取り次がれた御言葉に対して、自らの知識をひけらかして、教師の説教に反対意見を述べたり、余計なこと付け足して、聖書の教えを捻じ曲げようとする人々が多かったようです。そのような態度が、互いの対立を煽り、分派につながる原因となった事は明らかでした。パウロは、コリントに滞在中、そのような思い上がりを防ぐ為に「御言葉を越えない」というスローガンを立てていたようです。御言葉は、素直に聞き入れ、服して従うものであって、それが正しいかを審議したり、討論したりするための物ではありません。またそれは、教師たちの御言葉の取次ぎに対しても同じことです。ある教師の説教は素晴らしいが、あの教師の説教はだめだとか、この教師以外の説教は聞く価値が無いとか、そのように、聞こえてくる説教をえり好みして、自分の聞きたい御言葉だけを取捨選択する態度は、到底御言葉に服従しているとは言い難いものです。例え、どの教師が取り次いだ御言葉であったとしても、その人を通して語られる神様に、私たちは服して従うべきなのです。

 パウロは、これらの事を総括して、私たちに決して思い上がってはいけないと戒めています。思い上がりとは何でしょうか。それは、私たちが神様に対して、何か意見することが出来る特別な存在であるかのように勘違いする事です。何故なら、私たちにあって、神様に無い知識は能力は何一つないからです。私たち人間は、両親や学校、また習い事によって、この世のあらゆる賜物を得ます。それは歴史の中に生きる全ての人が同じで、その賜物は、全ての知識を与えた神様に帰するものです。ですから、私たちにあって、神様に無い知見など何もありません。だから私たちが神様を否定したり、意見を言おうとする態度は、素人が生中な知識で、専門分野の権威に対抗しようとするのと同じことです。その人は、公の面前で大きく恥をかいて退く事でしょう。私たち人間の知恵では神様の御心以上の名案を出す事などできないのですから、神様の御言葉にはやはり従わなければならないのです。

 神様の御言葉には、従い、その内に留まらねばなりません。それは、私たちが幸せに過ごし、活き活きとした人生を生きる為です。神様に従うならば、私たちは幸せに、かつ長く生きることが出来ると聖書にも書かれています(申命記5章28-33節)。私たちは、自分を導びこうとされている神様を信頼しているでしょうか。伏して御言葉に従い、その内にとどまりましょう。



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