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牧師の説教ノート(10月30日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 パウロであれ、アポロであれ、神様によって備えられたものは、皆等しく教会を建て上げるために用いられるのであり、そこに優劣は存在しない事をパウロは訴えた。それは、教職者に限らず、全てのキリスト者に共通する真実である。
 だから、誰が尊いとか、誰が特別だとか、逆に誰が悪く、誰が相応しくないだとかに拘るのは詮無い事であるし、そもそもそのような判定を下す事自体が間違っているという事を、パウロはコリント教会の人々に訴えかける。

 私たちに対して評価を下されるのは、他でもない神御自身であり、私たちは自分自身をすら裁く権利がない。だから、主である神御自身より先んじて、自分自身に対して評価を下したり、他人の良し悪しを論じ合う事を私達が行ってはならない。それは、神を蔑ろにする行為そのものである。

 パウロは、前の段落で分派が愚かであるのを働き人の視点から語った。今度は、それを神に仕える者の権限の視点から語るのである。この際、パウロは話を分かりやすくするために自分自身を例に挙げて語っているが、神から忠実を求められる事、また評価は神からのみ下されるという基本的な事項は、聞いているコリント教会信徒の人々についても同じ事である。

 人間は心の中を見通すことが出来ないが、神はその目によって全てを見通しになられる。書かれている通り、人間には見通す事の出来ないあらゆる要素を引き出され、その結果、私たちに対する評価を下されるのである。それは裁きという恐ろしいものだけではなく、私たちが神様に抱いている想いとか、真心とか、行動の動機とか、あらゆることが吟味されるのである。

 パウロは、神が全ての闇に隠れていること、また心の中の想いを明るみに出されると宣言した。そのように聞けば、誰でも自分自身が裁かれる、叱責を受けるといった印象を持つ事であろう。しかし、その後にパウロが言うのは、神から称賛を受ける事ができるという話題である。そこには、叱責も裁きも、怒りも、何のネガティブな言葉も使われていない。私たちが、自分自身も忘れている神様への想いや、我慢したこと、つらかった経験、捧げた様々なものを、神は全て覚えて、それらを明るみに出して下さる。私たちの罪や咎、弱さなどは、十字架の贖いによって全て忘れ去られ、後に残るのは神の恵みによる称賛のみである。私たちは裁きの日を恐れる必要がない。それぞれが、自己を吟味し、悔い改め、真心を込めて忠実に自らの役割に仕える時に、私たちは神様から、それぞれ素晴らしい称賛と報酬を受けるのである。


〇神のしもべ
 しもべ(ギ:ピュペーレテース)は、しもべ、奴隷といった意味のある言葉である。それは、所謂ディアノコス(使用人)とは違う者であり、完全に主人の為に仕え働く、下層の奴隷としてのニュアンスがある。
 神の前に仕える教職者、使徒は正にこれであり、自らの事についてすら、自らで決める権限が与えられない。ただ、主人の命令のみを良しとして、主人の取り扱う通りの自分の処遇を受け入れ、ひたすら与えられた仕事を忠実に全うすることが求められる身分なのである。


〇神の奥義の管理者と考えるべきです
 考えるべきです(ギ:レギゼオーソウ)は、考慮に入れる、計算する、家庭する、結論づける、理由づける、といった意味のある言葉である。ニュアンス的には、「私たちを神の奥義の管理者として考えた場合はどうだろうか」といった感じだろうか。

 また、管理者(ギ:オイコノモウス)は、(一家の)会計、管理人、家例、番頭といった意味があり、ヨセフが、奴隷ながらも家の財政を全て委任されたように、牧場のオーナー等から、あらゆる管理を委託されている人間の事を指す(創世記39章4-5節)。

 この文脈でパウロは、管理者に要求される事は、忠実であると認められる事であると述べている。要求されている(ゼーテイタイ)とは、強く探し求められる、追及されるといった意味であり、厳しく求められる職責であると言える。オーナーは、その管理の差配を管理者に委託するのであるから、その管理者の行う事の一つ一つを全て監視して、採決を下すわけではない(もしそうなら自分で全てやったほうが早い)。だからこそ、オーナーが追及するのは、その管理者が不正や背任などによって財産を損なわないか、問題なく仕事を遂行しているかどうか、自分を裏切らないかといった「忠実さ」であり、そして、管理者が行った管理の「結果」をもって、これを評価するのである。

 オーナーにとって重要なのは、ある意味「仕事で不正なく結果を出すか」と、「自分を裏切らないか」の二つだけであり、管理者の評判や性格、実際の差配などについては、細かくこだわる事はない。同じように、私たちも神の宮を建て上げるという仕事を与えられているが、主は私達の裁量を認められ、その一つ一つを厳しく追及されることはない。私たちは、主からあらゆる仕事や物事を任され、自身の人生や時間、そのほか、この世の様々な物を委ねられているので、それを好きに用いてよいのである。その結果、主は心の内側の動機や、私達の考え、思想、弱さ、その他に至るまでを全て勘案された上で、最後の結果をもって、管理者である私達が、神に忠実であったかどうかが判断されるのである。

 では、そのような管理者が管理する奥義とはなにであろうか。古来より、この奥義は「神の多種多様の恵みとキリストが制定された礼典を取り扱う者であるがゆえに『神の奥義の管理者』と呼ばれる」(日本基督改革派教会『政治基準』第七章第三三条)、「ところで、これらの奥義ないし秘儀には、聖礼典が切りはなせないものとして関連しているのであり、その結果、御言葉をつかさどる任務をもつ人はまた、聖礼典の合法的な管理者となるのである」(カルヴァン『コリント前書』)、「使徒パウロは多くの処に、また原則的にエペソ第三章に、キリストの福音をキリストの奥義と言った。長老たちは、キリストの聖礼典を奥義と言った」(『第二スイス信条』18章12)などとあるように、聖礼典(サクラメント)こそが奥義であるとされてきた。従って、カトリックや一部の宗派の中では、厳密には、御言葉の取次ぎや、教会の管理、牧会等は、神の奥義の管理には当たらないと考える向きが強いわけであるが、それは神学的思考にとらわれすぎた行き過ぎた解釈であるため、プロテスタントの立場からは受け入れられるものではないし、説教にも採用すべきではない。

 神の奥義とは、もっと広義に福音そのものと捕らえるべきである。即ち、神の御子が人となられ、この世にお生まれになり、私たちの罪の罰の為に十字架にかかり、死んで、三日目に復活してくださったので、御子を信じる者が誰一人、その恵みから漏れる事無く、ユダヤ人でも、異邦人でも同じ聖餐の席に着く事ができるという不思議が、旧約の時代には明かされなかった、神の奥義であり、福音そのものなのである。それ故に、聖餐はその奥義の全てを体現するものとして尊ばれ、重んじられるのであるが、聖餐の儀式そのものが奥義であると定義づけると、そのニュアンスは大分違ったものに変わってしまうので注意が必要である。


〇さばきについて
 管理者にとって、自分の評価を決めるのは雇い主であり、他の使用人や外野の人間達ではない。だから、雇い主以外からの評判が如何に悪くとも、それは全く気にするような問題ではない(その評価に対して傷つく事はあるかもしれないが)。
 むしろ、周りからの評判がよくとも、雇い主の不興を買うならば何の意味も無いのである。

 この判断について、さばき(ギ:アナクリノウ)という言葉が使われている。この言葉が差し占める意味は、尋ねる、問い質す、調べる、吟味する、といった意味がある。また、判決を下す、責任を問うというニュアンスもあり、実際、その働きを評価されるといった意味合いで取る事が出来る。

 私はアポロ、私はパウロ、といったように、勝手に働き人の働きを判断を下すことは正にこれにあたる。逆に、アポロはダメだ、パウロはダメだ、といった判断もこれに該当する。良い方にも、悪い方にも、私たちは全ての働き人の働きについて判断し、結論を出してはならないのである。それを行う事が出来るのは神のみであり、そしてその役割は神の特権でもある。それ故に、働き人の働きの良し悪しを自分達で勝手に決めて言い争う事は、神の主権に挑戦する行為であり、神の宮を破壊する行為とはまた別の形で、神の戦列に挑戦する行為なのであることを覚えて置いた方がよい。

 そして、何より私たちは、自分に対しても判決を下してはならない。良い方にも、悪い方にもである。ちなみにパウロは、自分には何らやましいことがないといっていっているが、自分の心の内に一切罪が無いと言っているのではない。むしろパウロは自分を罪びとの頭とさえ言っているのであるから、自分の心の内の弱さや罪は十分に自覚している(テモテ1章15節)。これは文脈的に自分の職務についていっているのである。自分は神から与えられた職務を遂行する上では、何の不正も、良心に咎める事もしていないと言っているのである。また、義とされているというのは職務が正しく遂行できているという主からの評価であって、信仰義認などの話では無い。


〇闇に隠れた事、心の中のはかりごと
 私達は、心の内にあるやましい事、後ろ暗い事を第一義には指しているのかもしれないと思い込みがちになるが、直後にパウロが「神の称賛」という言葉を合わせて用いているために、寧ろネガティブではなく、ポジティブな意味での暴露であることを推察することができる。

 人からは見えない、それぞれの苦痛や努力、はかりごと、真心など、様々なものを神が明るみに出されると言う文脈で語られているようだ。その中には、当人すら忘れている想いは多くある。私たちは、自分自身が神に向けた誠実さや、真心すら、正しく覚えている事ができない。それ故に、自分自身に対して厳しく評価してしまうかもしれないが、神はその点に於いても完全に公平に私たちを評価し、吟味して下さる。神は私達のあらゆる働きを判断される際、その想いや動機など、あらゆる要素を見られた上で、評価を与えて下さるのである。


〇称賛
 称賛(ギ:エパイノス)は、称賛、喝采、承認といった意味合いのある言葉で、神は私たちの働きを、全ての事を勘案した上で承認してくださるという言葉である。私たちは、自分の弱さを振り返り、自らの歩みを見た時に、決して人間の人生の歩みが、主から称賛されるに値しないものであることを自覚していることであろう。

 それでも尚、主は称賛を与えられると書かれている事は、私たちにとっての励ましであり、慰めである。パウロは敢えて、そこで主が称賛する者を称賛し、叱責するものを叱責する、と書いていない事は注目すべきことかもしれない。

 私たちには当たり前のように、その働きには落ち度がある。また私たち自身にも、明るみに出せない罪や咎、弱さは存在する。それらはどこへ行くのだろうか。私たちは何故、その点についての叱責をうけないのだろうか。それらは、全てキリストの十字架の血潮によって洗い流される。神は私たちの失敗や、罪、咎、弱さを、十字架の血潮によって贖い、洗い流し、忘れ去って下さる。それ故に、私たちが常に自己吟味を怠らず、神の前に遜り、悔い改めながら過ごしている限り、私たちは裁きの時に主からの叱責を受ける事は無いのである。これは私たちにとって、何よりの福音ではないだろうか。



2.詳細なアウトライン着情報

〇管理者について
1a 人は、私たちをキリストのしもべと考えるべきです。
1b また、神の奥義の管理者とも考えるべきです。
2a その場合、管理者に要求されることはなんでしょうか。
2b それは(主人から、主人に対して)、忠実であると認められる事です。

〇管理者の評価について
3a しかし(だから?)、私にとって、あなた方に裁かれることは非常に小さなことです。
3b また、人間の法廷で裁かれることも、非常に小さなことです。
3c それどころか、私は自分自身すらも、自分で裁く事を行いません。
4a 私には少しもやましいことはありません。
4b しかし、だからといって、それで義と(すでに)認めら(判決さ)れている訳ではありません。
4c 私をさばく方は主(であって、その判決はまだ下されていないから)です。

〇人を裁くな
5a ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。
5b 主は、闇に隠れたことも明るみに出されます。
5c 個々の中のはかりごとも明らかにされます。
5d そのときに、神からそれぞれの人に賞賛が与えられるのです。
(だから、裁く権限は主にあり、私たちはその権限を不当に横取りすることはゆるされないのです)




着情報3.メッセージ

『神による評価』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 4章1〜5節
中心聖句:『ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。』(Tコリント人への手紙4章5節)  2022年10月30日(日) 主日礼拝説教

 私たち一人びとりは、イエス様の十字架の贖いに報いる為に教会を建て上げていきます。神様が与えて下さった恵みには、それぞれが与えられた仕事に忠実に励み、報いる事ができます。各人が、神様の恵みにどのように報いたかについては、神様だけが御存じです。

 コリント教会の人々は、パウロやアポロの働き人が行った様々な働きについて、勝手に良し悪しを付けて論評し、互いに言い争っていました。使徒の働きは神の奥義の管理であり、それは神様が与えて下さった素晴らしい恵みを宣べ伝える為の大切な仕事です。即ち、イエス様がお生まれになり、私たちの罪の罰の身代わりとなり、十字架に掛かって死んでくださったことで、全ての人の罪が赦されるようになりました。ユダヤ人でも、外国人でも、誰でもこの救いを信じる人は、同じ席で聖餐に預かることができるという、旧約の時代には知らされっていなかった神の奥義を、パウロもアポロも、自分の良心に従って懸命に宣べ伝えていたのです。当然、パウロも、アポロも、その働きについて何ら恥じることなく取り組んでいた訳ですが、その善し悪しを判断するのは自分ではない(当然コリント教会の人々でもない)ことをパウロは語ります。私たちの応答の善し悪しについて判断をできるのは神様だけだからです。

 神様は、私たちが神様からの恵みや、十字架のあがないに対して、どのように報いているかをいつもご覧になられています。神様は心の中まで見通され、具体的に私たちが神様の為に何を行ったのかは勿論、その時の心情や秘められた真心にいたるまで、全てをご存じなのです。先にパウロが試しの火(3章13節)の話題で触れたように、時が来た時、神様は私たちの働きの全ての働きの善し悪しについて判断し、称賛を与えて下さいます。その評価は、他の全ての評価より正しく、優先されるものです。例え人から何を言われようとも、神様だけが全てをご存じなのですから、私たちは神様の評価だけを大切にすればよいのです。それは自己評価についても同じことです。私たちは、自身の弱さや罪を誰よりも知っていますから、神様の前に自分が評価されることは無いだろうと思い込んでしまっているかもしれません。しかし、神様は真実で正しい方ですから、悔い改めて告白した罪を全て赦した上で評価して下さいます。神様は全ての罪を忘れさって下さいますが、私たちが捧げた真心や行いの全てを忘れ去られる事はないのです。神様は、私たちが自覚していなかったあらゆる思いまでもすくい上げて下さり、その働きを称賛して、素晴らしい報酬を与えて下さるのです。

 私たちは、神様より先だって、人の働きに善し悪しの評価をつけたり、自分を称賛したり、裁いて落ち込むようなことがあってはなりません。神様は私たちの全ての行いと想いをご覧になって喜んでくださる方なのですから、心配せずに、真心を込めてお仕えすることが大切なのです。私たちは神様の恵みに対してどのようにお返しする事が出来ているでしょうか。神様の前に喜んでお仕えして、終わりの日に神様にお会いできる時を待ち望みましょう。



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