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牧師の説教ノート(10月9日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 非常に短い箇所であるが、色々と学ぶべきところが多い箇所である。パウロは、前節までの神の建物としての教会の重要性について説いた後、それを破壊する者の罪深さについて厳しく指摘する。

 私たちはキリストの十字架の贖いに報いるために、自らを捧げて神の建物、即ち神の宮を作り上げるのだということを前段落で学んだ。ならば、そのように必死に作り上げるべきものを壊すものはどうなるのだろうか。私たちの作り上げている建物は神の宮であり、神殿である。それを破壊する者は、神の領域を破壊しているのである。

 神の領域に踏み込んでそれを破壊する者は、万軍の主の戦列に対して挑戦する愚か者であるのだから、神ご自身の御手によって、徹底的に滅ぼされることになる(Tサムエル17章26,45-46節)。それは至って順当な結果であろう。


〇知らないのか?
 知らないのか(ギ:ウーク・オイデイテ)は、知っていて当然の事を何故知らないのかというニュアンスを含む叱責の質問である。警察官であるのに法律に違反してはいけないと知らなかったのか、などと、基本的な部分を疎かにしている人に叱責する時に用いられる表現である。
 パウロはコリント人の手紙の中だけで、この表現を幾度も用いている(6章、9章等)。
 自分達の共同体が、侵されてはいけない神の聖域であることを、教会員自身が知らないということは恥ずべきことである。そのような共同体の中で行動するからこそ、私たちは自分の身の振る舞いや、行動の仕方について細心の注意を払うべきなのである。


〇神の宮
 パウロは神の宮という言葉を用いているが、神殿(ギ:ナオス)は、外観や外回りなどを含めない神殿本体、建物の聖所の部分を現わす言葉である。つまり、そのままの意味で神の御霊、即ち聖霊が宿る神殿を指している。

 神の宮という思想は、エゼキエル書の中でよく用いられている(エゼキエル11章16-20節、36章25-28節、37章26-28節)。バビロン捕囚からの帰還の後、神の宮の建設はイスラエルの悲願であった。その神殿は、ゼルバベルらによって建てられた第二神殿でも、ヘロデによって再建されたものでもなく、キリストの十字架によって贖いを受けた一人びとりの間に、教会という共同体の形で建築されているのである。

 パウロがあなた方という呼称を使う事に加えて、神殿が一般名詞として用いられている為、一見、信徒一人一人個々人がそれぞれ別々の神殿であり、神殿がたくさんあるように聞こえるが、実際はそうではない。

 パウロは教会の分裂を憂慮しており、教会の分派が起こっている事について怒り、叱責しているのであるから(3章4節)、むしろ、「あなたがた全体」、即ちコリント教会という共同体が一つの神の神殿なのであるとパウロが語っている解釈するのが文脈にも沿う筈である。ちなみに、全ての教会の間に確立されている「公同の教会」とも違う事も確認しておきたい。

 しかし、コリント教会の一つだけが神の宮である事は有り得ないので、教会の集合体というマクロの視点で見るならば、やはり神の宮は多数乱立しているとみる事が出来るかもしれない。しかし、モーセの時代から、神は会見の幕屋まで訪れて、「人と会われる」という会合を繰り返してこられた。神の宮とは、神の居られる所に人間がやってきて面会するのではなく、神と人が「待ち合わせて」、同じ場所、同じ時刻に「落ち合う」のである。実際に、旧約聖書では、神がモーセと一所に待ち合わせて互いに落合い、語り合う場面もある(出エジプト33章9節)。この考え方は全ての礼拝、全ての教会にも適用される。それ故に、教会員のひとりびとりが示し合わせて集まるという事に意義が生まれるのである。コリント教会の人々が、神を礼拝し、キリストを記念する為に集まる時、神もその場所にやってこられ、聖なる会合が始まる。神が訪れ、その神の宮を用いて招かれるので、私たちは神の宮で神に会見することが出来るのである。

 それぞれのキリスト者の中に聖霊が内住している臨在の恵みと、神の宮に神の御霊がお越しになられ、その礼拝に列席してくださるという会見の恵みは、似ているようで違う。それぞれが全く別の素晴らしい恵みとして、私たちに与えられて居るのである。


〇破壊と制裁
 壊す(ギ:ペセイレイ)は、腐敗、破壊、台無しというニュアンスを含む動詞である。壊すと一口に言われると、関係の破壊、即ち仲違いのみを連想するが(パウロも趣旨的にはそのような意味でこの単語を用いているが)、教会内に腐敗を引き起こす、教会の信仰を躓かせる、教会の活動を無意味なものに導く等、教会に対して行われるありとあらゆる妨害的な工作についてここでは言及されている。それが意図的であろうと、無かろうと、教会の信仰を躓かせ、教会の活動を阻害する者とは、神が戦われるのである。それは迷信でも何でもなく、実際に教会に敵対し、害をもたらす人々はやがて死(ギ:ペセイレイ)という形で神御自身から制裁を受ける。これについては現代に於いても何も変わっていない。

 神はその人の行いに対して当然の報いを与えるという形で、ペセイレイという同じ単語を用いて表現している。目には目、歯には歯という、公正な処罰であるというニュアンスでもある(出エジプト21章24節)。だから、これは恣意的なものではなく、神の宮を破壊したものには、当然の報いとして神による破壊が訪れるのである。何故なら、彼らは望んで神に挑戦したのだから、本人たちの願い出た通り、神は御手に剣をもって、本人の希望を叶えるという形で、彼らが望んだとおりに敵対し、滅ぼされるのである。

 自分自身の軽率な行動が、教会全体のペセイレイにつながっていないか、私たちは常に注意深く自分の行動を観察していなければならない。教会の徳にならない議論を巻き起こしたり、諍いを引き起こすのが好きな人物はどの教会にも一人は存在する。また、(牧師批判や教会への抗議などの意味で)恣意的に礼拝欠席をして周りへ悪影響を及ぼしたり、表ざたにはしないまでも、教会に対しての不安を巻き起こして不一致を招くような行動をとることも、神の宮の破壊の罪となる。自分がそのような立ち位置になった時、神から降る怒りが如何に大きいかは、少し考えればわかる事だろう。良く弁えたほうが良い。

 しかし、教会の聖性を十分に理解し、自らも聖められた賢明な教会生活を送りたいと願う人は、このような状態に陥る事は有り得ないので安心して良い。これまで学んできた通りに、神の御霊によって歩んでいる人は、神の御心が何であるかは知っているし、分争や言い争いの愚かさも霊に知らされている。周りと協調し、自らの聖めを追い求め、教会の紛争を好まずに、自らの役割に身を捧げて主に仕える。そのような信仰生活を送っている限り、この破壊と制裁については常に無縁でいられることだろう。勿論。そのような自分の信仰生活を鼻にかけて、周りを見下すような態度を取らない限りは、であるが。


〇あなた方はその宮です
 あなた方はその宮です、と新改訳2017では訳されているが、実際には「あなた方はその類である(ギ:オイティネス・エステ・ヒューメイス)」と原文では書かれている。文脈的に二通りの見方をすることができる。一つは新改訳の通りに「あなた方がその宮なのです」という訳である。もう一つは「お前たちは、そのように滅ぼされる類の罪びとなのだ」という辛辣な意味での表現である。これについては文脈的にどちらを採用しても意味が通ってしまうので訳が難しい。後者であるなら、これは戒めにしても、あまりにも辛辣な愛の無い表現であろう。

 パウロは「兄弟たち」という表現を用いて、厳しい叱責の中でも愛を持って手紙を書いているのだから、愛の無い辛辣な叱責は手紙の趣旨には合わないかも知れない。
 そういう意味で、どちらともとれるが、あなた方はその宮であると訳すのは妥当であると言えるだろう。





2.詳細なアウトライン着情報

〇神の宮
16a あなたがたは、自分が神の宮であることを知らないのですか。
16b 神の御霊が、自分の内に住んでおられることを知らないのですか。
17a もし、誰かが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。
17b (なぜなら)神の宮は聖なるものだからです。
17c あなた方は、その宮です。

着情報3.メッセージ

『神の宮』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 3章16〜17節
中心聖句:『あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。』(Tコリント人への手紙3章16節) 
2022年10月9日(日) 主日礼拝説教

 私たち信徒の一人びとりは、イエス様の十字架の贖いに報いる為に、神様に仕え、教会を建て上げていくことが使命であるとパウロは言いました。しかし、何故、そのように教会を建て上げていく必要があるのでしょうか。私達はもう少し詳しく知っておかなければなりません。

 パウロは、コリント教会全体が神の宮であると語りました。そもそも神の宮とは何なのでしょうか。古来より、神様は交流しようと人間と待ち合わせて、一つの場所に集合する形でお会いになるのが慣例でした(出エジプト33章9節)。これが会見の幕屋と呼ばれる神の宮です。神様は常に一つの場所に居られるのではなく、人間と会見する為に、この神の宮までお越しになられて、人々にお会いになられていたのです。しかし、イエス様による十字架の贖いが完成した今の時代、私たちはそれぞれが神の御霊を受けて、それを共有する共同体となりました。だから、教会として一つの所に集まう時、神様も常にそこに居て、私達の礼拝へと参加して下さるのです。それ故に、神様がお住まいになられている、私達の教会という集まりそのものが、特別な神の宮として常に用いられているのです。ですから、私達は神様の御住まいになられているその交わりを、決して破壊したり、腐敗させたりしてはならないのです。

 しかし、実際の所、コリント教会の人々は、そのような神の宮である教会の集まりを破壊して分断を引き起こしていました。そのような行為が一体何を意味するのか、パウロはしっかりと弁えて背筋を正すようにと、コリント教会の一人びとりを戒めます。神の宮を破壊する行為は、正に神様の目の前でその住まいを破壊して敵対し、万軍の主の戦列に挑戦するのとなんら変わりが無く、それ故に、神様も自らに挑戦する者に対して、その者が望んだ通りに剣を持って戦われるからです(Tサムエル17章26,45-46節)。神の宮を破壊した者は、神様と戦う事を自ら望んでそれを行ったのですから、その望み通り神様と戦うことになり、その結果、御手によって完全に滅ぼされるのです。神の宮の破壊(ギ:ペレイセイ)とは、打ち壊すという意味以外にも、腐敗、台無しという意味合いも含む言葉です。意図的であるにせよ、そうでないにせよ、イエス様の十字架の贖いを慕って集まる教会の交わりを腐敗させたり、台無しにするような人は、皆、同じように神様と敵対する者となって滅ぼされます。だから私たちは、自らの言動に気を付けなければなりませんし、聖霊に従って周りと協調し、聖めを追い求め、争いが起きないように気を配って、信仰生活を送らなければならないのです。

 旧約の時代、神様は人間と待ち合わせて一つの所にお越しになられましたが、恵みの時代の現在においては、私たちと常に行動を共にしてくださっています。神様が常にそばに居て、私たちを守って下さることは、何とも心強く、喜ばしいことではないでしょうか。教会の集まりを何より大切にし、そこにお住まいになられている神様に、喜んでお仕えしましょう。





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