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牧師の説教ノート(10月2日分)

1.時代背景、舞台、文脈背景


1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 コリント教会の面々は、霊的に物事を見る目がまだなく、物事を霊的に解釈して神の御心を察すると言った行いに、全く至る事ができないでいる状態だった。それ故、パウロは分派争いが如何に愚かであるかを、パウロとアポロの働きを例に挙げて、懇切丁寧にコリント教会の面々に説明したのである。そこからパウロは、ついでだとばかりに、建物という単語を発展させて、コリント教会の人々の職責について言及しはじめる。これは即ち、建物であるコリント信徒自身が、自分達を建てあげなければならないことを言及しているのである。教会、即ち自分達をを建て挙げる人々には責任が伴う事をパウロは訴えかける。
 主の畑、主の建物を建て挙げる働き人には常に責任が付きまとう。教会を作る為に土台を据え、創設する働きをパウロは行った。そして、パウロの据えたイエス・キリストという土台の上に、アポロがコリント教会の霊的な養いを行ったのである。パウロと同じく、アポロもまた働いたのであるから、その分の栄光を受けるだろう。しかし、コリント教会が建て上がったか、それとも霧散したかについての責任を問われるのはこの二人ではなく、実際にコリント教会で信仰生活を送る信徒の一人びとりなのである。信徒一人びとりの働きがどのように神様から評価されるのかについて、パウロは8節部分を更に細かく説明しているのである。

 このような働きの「審査」は、全ての人の手の業を評価する為に訪れるものである。パウロやアポロも、自分達の建てあげた教会がどのように患難に耐えるかによって神様からの「審査」を受ける事になる。同じように、神の畑である信徒達は、普段からの信仰生活に加え、試みに遭った際にどのような信仰を見せるかによって「審査の火」の中をくぐる事になるのである。


〇賢い建築家による土台
 土台(ギ:セメリオス)は、そのまま礎、土台、基礎の意味がある。賢い(ギ:ソフォス)は、賢い、熟練した、学識があるといった意味がある。土台の上に建物を建てるのは、他でもなく神の建物である信徒一人一人である。何故なら、教会は、そこに集う一人一人の信仰や物のの考え方が如実に反映されるからである。土台を据える事、建物を建てる事、これは一連の作業で一つの仕事のように思えるが、決してそうではない。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人達は、ゼルバベルによってエルサレム神殿跡に土台を据えて感謝の礼拝を捧げたが(エズラ3章8-13節)、実際に神殿を建てる仕事は十年以上中断し、預言者ハガイとゼカリヤに促されることでようやくこれが実現したのである(エズラ5章1-2節、6章14-15節)。土台を据えたところで家を建てる事が出来なければ、その人は物笑いの種になるとイエス自身も発言している。土台を据えることと、家を建てることに取り組むとき、それは別の働きとして考えなければならない(ルカ14章28-30節)。

 では、本当にパウロは、一人びとりの信徒が教会を建てると言及しているのであろうか。言及されているのは、信徒の中でも、一部の長老たちだけなのではないだろうか。パウロは、「建てるのである(ギ:エポイコドメイ「直接法、能動相、現在」)」という言葉を用いており、「建てたのである」という完了形を用いていないので、これはこれから教会を建て上げていくコリント教会の当事者に対して語り掛けていることがわかる(パウロもアポロも、既にコリント教会には居ないが故に)。またそれぞれ気をつけろといっているのであるから、これはやはり一部の指導者ではなく信徒全体に対していっている言葉である。またこの事から、手紙の開始時から現在までの「あなたがた」という呼びかけも当然、一部の長老や指導者にではなく、教会員全体に呼びかけられてきたことも確認できる。パウロが「あなたがた」は「神の畑、神の建物」だと言った以上、誰にとってもこの話題は他人事ではない。また、自身の仕事ではなく、教会がどのように建つのかということについても、それぞれに責任が問われる。その教会がどういう教会であるのか、その責任が問われるのは、パウロのような牧師や指導者ではなく、その場で教会を建て挙げるひとりひとりなのである。

 またパウロは、今まで「知恵によって」という話題を提供してきたが故に、この土台を据えたという自身の仕事は、神の御心と知恵によって行われたという事も言いたいのだろうと思われる。また当然、イエスの教えである土台を建てる人の話も念頭に置きながら話したことだろう。マタイ福音書では、思慮深い(ギ:フォロニモス)という単語が用いられているが意味合いは同じである。またルカでは土台についてのみ言及されているが、云わんとしている事は共通している。文脈的にはどちらも、御言葉を聞いて実行する人としない人の差について話題を取り扱っているのであるが、土台から家を建てる一連の仕事の評価には、当然、御言葉の通りに手の業を実行してきたのかどうかという忠実さを問う要素も混ざっているのだろう。それぞれが与えられた神からの使命を忠実に果たす事で、それぞれがパウロと言う建築家の据えた、イエス・キリストという土台の上に自分の手の業を構築していくのである。

 では、イエス・キリストという土台とは何であろうか。それはパウロがコリント教会の人々に伝えた「十字架のことば」である。即ち、キリストは神の独り子でありながら、私達の罪の罰を身代わりになって受けるために人間としてこの世に生まれ、十字架の上で死なれ、墓に葬られ、三日目に死人の内からよみがえったという、キリストの十字架に纏わるあらゆる言葉である。なぜ、十字架のキリストが土台になるのだろうか。それは、私たちクリスチャン一人びとりが、罪の罰の身代わりとなって死んだイエスの十字架の恩恵にあずかっているからである。この十字架の犠牲に報いること以上に大切なことは、私達の信仰にはあり得ない。それ故に、キリストの十字架は私達の信仰の土台であり続けるのであるし、教会は常に、全ての人の「罪」と、その罪の贖い主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのである。

 パウロはこの土台について、他に選択の余地を一切残していない。しかも、それは既に「据えられて」いて、他の土台を据える事は出来ないとも言及されている。それは至極当然な議論である。私たちは例外なく、自らの犯した罪によって滅びなければならなかったところから、既にキリストの十字架によって救い出されているからである。私たちの罪の精算は「もう終わってしまった」のであるから、既に信仰の土台は、私たちが救われる以前からとっくに据えられているのである。もし、他の人物やヒューマニズム、また人間的思想が、このイエスの十字架に成り代わろうとするならば、それらは私たちが全力で排除すべき信仰の敵(サタン)である。また、イエス以外の物を第一に置いて教祖とするようであるならば、それらは確実に異端である。決して、十字架のイエス以外に私たちの信仰の礎となるものがあってはならない。間違っても、私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲以外の動機から、教会を始めてはならないのである。たとえそれが、人助けや環境保護などの耳障りの良い動機や、イエスの行動に習うという一見正しいように見える動機であったとしてもである。

 勿論、イエス・キリスト以外のものを土台にして家を建てることそのものは可能である。人道支援や環境保護、地域振興など、様々な動機を下に敷いて何かサロンのようなものを作る事は大いに素晴らしい事であろう。しかし、それが「神の宮」として、終わりの日に評価されることは一切ない。それは各々が自分の為だけに建て挙げた、永遠ではない朽ちる地上の財産であるから、評価されるのは地上の中だけである。神の国に入る時、それらはまったく関係ないものとして扱われる。

 さて、最後に土台の上に建てあげるものが一体何であるかについては探っておかなければならないところである。文脈的には、第一義に「教会」についてパウロが議論していることは明らかである。パウロが植え、アポロが水を注いだのは教会であって、貴方達も同じ同労者なのだと話題が発展したのだから、神の建物、その土台については、全て教会の事を言っていることが明らかである。しかし、教会を建てあげるためには、個人個人が神から与えられた仕事を忠実にこなす事が求められるので、結局は個人的な信仰生活や、神への献身、また奉仕が教会を作り上げていくという事は可能である。それぞれが自らの担当する建築物をつくり、それらが全て主の宮として用いられるのである。


〇金、銀、宝石、木、草、藁
 土台はキリストの十字架の犠牲という一つしか据える事が出来ないにしても、その上に建つ建物は全く別である。キリストの十字架に報いるために、善きサマリア人のように慈善活動を行うという取り組みは、素晴らしい神の宮として用いられる事であろう(慈善活動を動機に教会を建てるのと、主の十字架に報いるために慈善活動を行って神に仕えることは、似ているように見えて全く別の事である)。教会に集う信徒達は、様々な材質、様々な形で、それぞれが違う建築物を建てる。それが、イエス・キリストの十字架に報いるという確かな土台の上に建っているならば、全て正しい建物である。

 ところで、それぞれの手の業が建物となるのであるが、それらは材質によって評価されるとパウロは言っている。何故なら、建物は用いられる建材によって、その用途が全く異なってくるからである。神殿や神社、仏閣などの特別な建築物を建てる時、人間は金や銀を用いた特別な材質を用いるが、自分の家を建てる時には、木材や茅葺などの、住み心地の良い安価な材料で家を建てる。即ち、聖別された建材を用いるか、普段使い用の建材を用いるかで、建てあがった建物の評価は全く変わってくるのである。パウロはその基準を、「燃えるか燃えないか」で選り分けているが、もっと厳密に言うならば、「神の宮」とするに相応しい建物になっているかが問われているのである。

 ところで、これら材質が一体何を指すかについては、初代教父の時代から意見が分かれてきた。それがどのような考えで手の業を為したかという「教理知識」を指すのか、それとも、生活や御言葉の実践、また自身の「行動」によるのか、どのように神を喜ばせようかと、常に神の為に手の業を行ったかと言う「動機」であるかという三つの事柄である。しかし、パウロは一部の指導者ではなく、コリント教会の全員にこれを言っているのであるから、これら三つの全てが総合的に問われると考えるのが合理的であろう。神からそれぞれが与えられた仕事に対して、キリストの十字架の贖いに応答するという正しい教理で、御言葉を伴った正しい手の業を行い、かつ、「何を行うにも神に喜ばれるように」という真心をもって神に仕える人は、「良い建材で家を建てている」という事が出来るだろう。

 しかし、実はこの材質についての議論は、もっと別の所に本来の趣旨があるように思える。それは、それぞれの建材が大きな対価を必要とするという部分である。古来より、パウロが挙げる材質については、それぞれにどのような意味合いがあるか探る試みが行なわれてきた。しかし、文脈的に見れば一つ一つの材質が何を現わすかを考えるより、手に入れるのに大きな対価を必要とするという一点にのみ注目すれば十分であろう。神殿などの特別な建物を建築する為の建材は、手に入れるのに大きな対価を支払う特別な材質で出来ているのである。つまり、金や銀や宝石とは、それぞれが神に仕えるうえで支払った「対価」が如何に大きいかったかで、その働きが評価されるというメタファーである。

 問題は「木」を高価な建材と安価な建材のどちらに含めるかであるが、後述の燃える材質の代表的なものであることから、藁や草と同一に見るのが無難であろう。ただ、木材は古来よりイスラエルでは木はレバノン杉などを代表とする、イスラエルでは非常に高級な材質でもあったという事は覚えて置きたい(Uサム7章2節)。しかし、パウロがこの手紙を書いているのはエルサレム宛ではなく、木材の安いギリシャ宛てであるので、恐らく木材は安く手に入る材料の中に数えられているのである。だから、木も草や藁は同列の評価されない材料であると言えるだろう。

 また、「燃える材質」という点で議論するとき、ダイヤモンドやサファイア、ルビーといった宝石類はある程度熱に強い鉱物ではあるものの、高熱にさらされると徐々に小さくなったり、熱によって膨張してダメになる事もあるなど、完全に火に耐えうると保証できるものではない。逆に炉端の石のような、全く燃えないが価値が無い建材もあり、「燃えなければそれでいいのか」、「燃えない粗末な建材でつくった建物はどう評価されるのか」などの議論が新たに発生するようにも思える。この事についてまともに議論するのは時間の無駄であろう。要点は、手に入れるのに対価が必要かどうか、また、その材質の使用用途がどのような建物向けであろうかどうかというところにあるのである。

 神に仕える上で成し遂げた仕事、また建て挙げた教会に対して、それを建て挙げる為にどのような対価を差し出したについて、全ての人が問われる。対価を支払わずに、安易に手に入る範囲でしか主の手の業を行わなかった人は、その働きも全て火によって燃やされ、評価の対象外になる。この対価とは、献金などの金銭以外にも、自身の大切なもの、即ち、時間、家族、楽しみなど、様々な物であり、主の為に何をどのぐらい失ったかが指標となる。主に仕えるために、私たちが諦めなければならないものは多いけれども、その支払った対価は全て自身の建てた家の建材に転化され、評価の対象となる。そして、その建材は火に晒されても決して燃えることがなく、一切の痛みは神からの評価と報酬から無視されることがないのである。

 ちなみに、先にふれたように、建物が神の為に立てる神の宮であるのか、自分の為に立てるねぐらであるのかについては非常に重要である。木や草、藁は安価である以上に、自分達の為の普段使いの寝床を建築する為の建材である。だから、本来は主の宮を作らなければならないのに、その建物を私物化して、自分の寝床にしてしまうとき、そこに用いられるのは住み心地の良い木や草、藁になるのである。教会や、神の為の集まりを、自分の好みに合わせて耳障りの良いものにしたり、神を蔑ろにして私物化するようなことがあるならば、それらは間違いなく木や草、藁で建てた建物として神から裁きを受け、退けられることであろう。私たちが行った全ての手の業については、それが自分の為に行ったのか、神の為に行ったのかどうかという事は常に厳しく問われるのである。


〇「その日」、共にあらわれる火
 私達の建てる建物は、必ずテストされる日がやってくる。それがいつであるのかはわからないが、恐らくはキリストが再びこの地上に来られる時であろう。また、旧約で予告された燃える炉の火と同じであろう(Tテサ5章4節、マラキ4章1節)という予測でもあるが、これは試す火であって、裁く火ではないので、裁かれる者が入る永遠の炎とは別物である。また、クリスチャンを製錬する為の火でもない。あくまで、その働きを見分ける試験の火である。試練や迫害によって主が教会をふるいに掛けられることもあるが、このふるいと、かの火の試す火はまた別物であるので、そのあたりとも混同しないように注意すべきである。
 どちらかといえば、これはこの世界に点在している「キリストの為の働き」を名乗るあらゆる働きについて判断する為のものである。イエスの教えにもある「網のたとえ」が一番ニュアンスが近いかもしれない(マタイ13章47-49節)。

 「その日」は、神を信じた者に約束が果たされる喜びの日でもあるが、その一方、で神の民が為した様々な業への審判の時でもある。この審判の時、共に現れる火が、あらゆる不適切な建物を焼き尽くす。これによって、その人が、どれほど神の為に自らを費やして手の業を行い、その使命を果たしてきたかが問われるのである。それまで、その人がどのような歩みをしてきたのかは一瞬にして露わになることであろう。


〇損失を受ける、火の中をくぐるようにして助かる
 ここで言われている損失については、賃金を貰い損ねるという意味であろうと思われる。火で燃えるものは永遠ではない為、これを神の国に持ち込むことは出来ない。但し、焼き尽くされてもその人自身は助かるとも書かれている。それは、救われた以上には特に何もない人を指すものだと考えられる。注意すべきは、そのような状態になっても、救いそのものは失われていないことである。救いについては完全に神の手による恵みなのであるから、例え一切評価されない信仰生活を送っていたとしても、救いそのものだけは預かれるのである。

 火の中をくぐるとは、一時的な火の中をくぐる、即ち火事で焼け出された人という解釈が、家を焼くという話題的にも、また働き人の評価という文脈的にも合致するように見える。焼け出された人は一文無しであり、その姿もすすけてみすぼらしい。このような人々は、一応救いにだけは預かるが、そのような惨めな姿になり果てて、神の国では一番小さなものとされる。だから、建物が燃えたから、更に罰を受けて苦しめられるという訳ではなく、建物を建ててきた労力に対する報酬をもらい損ねるという解釈が一番妥当だと思われる。

 確かに、救われることは、行いではなく義によって与えられる神からの恵みではあるが、主の為に働いて神から受ける「報酬」は、それぞれの行いの業である。これを受けることが出来ないのは「損失である」とパウロは言い切っている。だから、私たちはただ救われるだけではなく、主から報酬を受ける事が出来るように、それぞれ与えられた主からの仕事を、自らの手の業によって、報酬を受けるまで懸命に行うべきなのである。
 それ故に、私たちは人の住み心地の良い木や草、藁の家ではなく、主に喜ばれる金や銀、宝石の家を建てて行かなければならない。来るべき新しい御国でも、私たちは忠実なしもべとして、主の役に立つ手の業を行っていくのである。

 最期に厳しく注意すべきは、この箇所は、長らく歴史の中である人々が主張してきた「煉獄」の教理の根拠には全くならないことである。煉獄などというものは存在しないし、聖書の中でも一切言及されていない創作物である。


2.詳細なアウトライン着情報

〇パウロの働き
10a 私は、自分に与えられた神の恵みによって働きを成し遂げました。
10b その働きとは、賢い建築家のように、土台を据えたことです。
10c (私とは違う)ほかの人が、その上に家を建てるのです。
10d しかし、(その際に)それぞれが注意しなければなりません。
10e 何を?:(家を)どのように立てるかについてです。
11a (何故なら、)誰も、既に据えられている土台以外の物を、(土台として)据えることは出来ないからです。
11b その土台とは、イエス・キリストです。

〇家を建てる人
12  だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁でイエスをたてます。
13a (すると)それぞれの働きが(やがて)明らかになります。
13b (そのことを)明るみに出すのは「その日」です。
13c 「その日」は、火と共に現れます。
13d (その日に伴って現れた)この火が、それぞれの働きがどのようなもの(である)かを試すのです。
14  だれかの建てた建物が残れば、その人は(主からの良い)報いを受けます。
15a だれかの建てた建物が焼け(て無くなってしまえば)れば、その人は損害を受けます。
15b しかし、その(建てた)人自身は火の中をくぐるようにして(辛うじて)助かるでしょう。




着情報3.メッセージ

『信仰の土台』
聖書箇所:Tコリント人への手紙 3章10〜15節
中心聖句:『その土台とはイエス・キリストです。』(Tコリント人への手紙3章11節)
2022年10月2日(日) 主日礼拝説教

 パウロは自分の働きと報酬について語った後、コリント教会の一人びとりも、教会を建て挙げる仕事を与えられた存在である事を語ります。実際に教会を建て上げるのはパウロのような働き人ではなく、正に自分達には関係がないと思っていた教会員一人びとりなのです。

 パウロは教会を創設し、十字架のことばによる福音を宣べ伝え、その基盤を作りました。その上に教会を建て上げるのは、そこへ集う一人びとりの仕事であるとパウロは言います。何故なら教会は、そこへ集う一人びとりの信仰生活が反映されて、建て上げられるからです。金や銀、宝石の信仰生活によって建てられる教会は、やがて素晴らしく成長します。それらが、特別な建物を築くのに用いられる建材だからです。それらを得る為の大きな対価は、神様への奉仕や捧げものによって支払われます。神様の為に時間を捧げて奉仕を行っているかや、十分の一の捧げものを収入から聖別して偽らず行っているかなど、それぞれの信仰生活の態度が、教会を聖別された神の宮へと建て上げていくのです。木や草、藁は、安価である以上に、自身の快適な寝床を作る為の建材です。それらは即ち、神様よりも自身を優先した信仰生活の象徴なのです。牧師や信徒が、神様より自分を優先する教会は、神の宮としてふさわしくありません。だから、そのような教会は、その働きを見極める試験の火によって、来るべき日に燃やし尽くされるのです。それを建て上げた人々も、神様から働きの報酬を貰い損ね、家事で焼け出された人のように何も持たず天国に入るという損失を負うのです。

 また、私たちがいくら神様の為にと信仰生活を送っても、パウロが言う通りに、信仰の土台をはき違えて教会を建て上げようとするならば、その働きは神様とは何の関係も無いものとされてしまいます。信仰の土台は、常に私たちの為に十字架に掛かり死んでくださったイエス・キリストです。まず初めに、イエス様がご自身よりも私達を優先して十字架の上で死んでくださったので、私たちも自分よりイエス様を優先してお仕えするのです。だから立派な慈善活動を行う為だとか、世界平和の為だとか、どのような耳障りの良いお題目であっても、十字架のイエス様以外が信仰の土台になることはあってはなりません。イエス様以外の人物や、物、思想の為に教会は、決して私たちの建てる神の宮の礎にはならないのです。

 神の宮を建て上げる為には、大きな痛みが伴います。しかし、神様はその痛みの一つ一つを覚え、報いて下さいます。私たちが、信仰生活の中で神様の為に体験した辛い思いや捧げもの、寂しい思いなどの全ての痛みは、金や銀や宝石として私たちの建物に反映されるのです。私たちは、しばしば不忠実になり、怠けて木や草、藁で手の業を増やしてしまう事も多々あります。しかし、それによって、積み上げられた金や銀や宝石が帳消しになることはないのです。だから、少しずつでも喜んで身を捧げ、神様から評価される働きを積み上げていきましょう。そして互いに、神様から与えられる大きな報酬を受け取ろうではありませんか。




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